NAVERまとめで作った記事の残骸を保存したものと読書の記録

NAVERまとめをエクスポートした記事と読書の記録

夢の劇場

多種多彩な夢が人間の意識は肉体とは別個に存在しうることを示している。これはすなわち、原始人が自分たちを本質的に二つの世界に存在する者ー目覚めている実体として昼に生きる夢と夢を見る魂として夜にあらわれる者ーとして考えはじめたことを意味する。(161)

 

彼ら(北アメリカの部族)は、夢を内的な存在が別の世界を旅することだと捉えており、あまりにも現実性と実質があるために、夢の中の出来事はすべて目覚めている状態にも同様の影響を及ぼすのである。(165)

 

知覚の障壁を破るには。通常はかなりの力の心理的なもうだが必要であり、導師の苛烈極まりない振る舞いにまつわる多くの話や、弟子が師を信頼しなければならないと主張されるわけが、これによって説明づけられる。(182)

 

神秘家の世界には、自由と悟りに向かうまったく異なった二つの道、あるいは径路があるようだ。それらは意志の道と降伏の道である。

まずもって修行と支配が不可欠だ。特定の手順をたゆまず繰り返すことで、ゆっくりしたものであれ、着実に、われわれ自身の日常存在の幻影を維持する意識を持った精神が疲労する。精神は純然たる粘りには堪えられないようだ。その結果、これを実践する者は疲労困憊するにせよ、精神は屈服する。

降伏の道においては、戦ったり流れに逆らったりせず、流れに従ったり、風に吹かれるまま体を曲げたりする。いずれの道も最終的には同じ目覚めに至るようだ。呪術師と神秘家の本質的なちがいは、これらの道の対極性にある。(184-185)

 

フイ=ネンは、霊的探究を忘れ果てていたが、その精神は緊張を解いており、おのずから自然に悟りが開かれた。寺で努力している僧侶たちは、フイ=ネンが身に着けていること ー努力しないでいることー を欠いていた。(187)

 

エネルギー組織の最悪の穴は、エゴ、すなわち個々の実体の社会的な仮面である誤った自己感覚である。われわれはこの幻影のペルソナを真の自己であると確信しているが、ペルソナは自らつくりだしたドラマや自尊心のために常に注意を必要とするため、最大のエネルギー排出口なのである。利用できるエネルギーの大半が、尊敬されたい、愛されたい、認められたいという果てしない欲求とともに、自分が価値ある存在だという感覚を補強するため、エゴの配管を流れ落ちていく。この不断の排出がなければ、われわれを包み込むとととみに恐ろしい幻影の自己を作り出している、常習的な知覚の牢獄を破れるほどのエネルギーがはるはずだ。(191)

1 夢から自然に目覚めた早朝のうちに、記憶してしまうまで、何度も夢を思い返すこと

2 ベッドに横たわって眠りに戻るとき、「今度夢を見ているときは、忘れずに夢を見ていることを認識したい」と自分に言い聞かせる

3 夢に戻ったことを思い浮かべ、今度は自分が夢を見ていることを認識しているのを確かめる

4 あなたの意図が固定するか眠り込むまで、2と3を繰り返す

ラバージは興味深い関係を作り出している。この訓練にかかわる精神状態は、われわれが特定の時間に目覚めようとするときに採用するものに酷似しているのだ。(224)

 

エゴは自らつくった要塞から絶えず斥候を送り出し、領域を広げられるかどうか、避けるべき脅威があるかどうかを探っている。斥候が持ち帰る情報は、チベット人が三つの根本的な毒と考えるものになる。エゴを強化し、その領域を広げることのできるものは情報の魅力であり、外部の驚異的な力に反応するのは攻撃であり、強化することも脅すこともできないものはすべて無知にあると考えられる。これら三つー情熱、攻撃、無知ーから、一連の複雑なプロットやサブプロット全体が生じ、それがエゴを完全に夢中にさせる。この基本的な三つに、増長と弁別が加わる。(233・・三毒

 

チベット死者の書」そのものは、不思議にも実際には死に基づくものではない。再誕の書と呼ぶべきものであって、おそらく「チベットの夢の書」と呼ぶのが最もふさわしいだろう。・・「死者の書」が述べているのは、そうした痕跡(死の修行は死者が残す霊的な力にかかわっている)に基づいて行動することではなく、バルドゥ、すなわち死の際に起こる亀裂ないしは間隙を扱っている。

しかしバルドゥは現象世界を扱う時の状況全体の一部なのである。バルドゥにおいて、われわれは人生を維持している幻影全体に出会うことができる。この幻想のマトリックスは死の際にふたたび出会うことになる。

チベット仏教徒は我々が宇宙の構造全体を創造すると主張する。死の際にわれわれは六つの段階としてあらわれるものによってこの事実を示される。これらは地獄、飢餓、畜生、阿修羅、人間、天という、六つの心理学的な幻影の領域(六道)に対応している。

われわれはこうした幻影をそのままに認識(投影)するか、あるいはそれらに同一化するようになって、ふたたび幻影の人生の輪廻に加わることになる。(243・・六道)

 

光の修行・・この技法はゾクチェン派が「自然光の修行」の一部として用いる瞑想である。・・あなたの体の中心にチベットの文字Aを思い浮かべて、そこに精神を集中する。(245・・阿字観)

 

6つのバルドゥ(間隙)があり、そのすべてを明晰夢によって調べることができる。

最初のバルドゥは通常の意識の覚醒時の状態である。第二のバルドゥはわれわれが眠っているときの夢の時間だ。第三のバルドゥは瞑想の状態で、すべての認識をふくむ。第四のバルドゥは体の五つの要素がたがいに溶けこんでいく死のプロセスである。(247)

 

眉間に意識を集中すべし。

心を思念のまえに置くべし。

息の本質を頭頂部にいたるまで満たし、光を浴びるべし

(262)

 

この夢と現実の曖昧さは、ソクラテスが提起したテーマの一つだった。プラトンの「テアイテトス」においては、ギリシャの賢人は次のように問いかけた。

誰がいまこの現在において、われわれは眠っているのか、われわれの考えていることはすべて夢なのか、それともわれわれは目覚めていて、お互いに話し合っているのは現実なのかとたずねたら、人はこれに応じることができるのだろうか。

 

 

 

 

 

クンダリニーヨーガ

基礎行法

足首を回す行法

合蹠(がっせき)・・足の裏を合わせる

メビウス行法(横メビウス・縦メビウス・横縦メビウス1,2)

 

本格行法

片足立行法

呼吸行法

 

体の柔軟さにはかなり個人差があるが、問題なのは柔軟さではなくどこまであきらめずに続けるかである。途中でそこであきらめると、そこからの前進は望めない。逆に言えば、どんなに身体が固くてもあきらめなければ、可能性はどこまでも広がることになる。(58-59)

 

第一輪 ムーラーダーラ・チャクラ(脊椎最下部)

ブラフマ結節

第二輪 スヴァデシュターナ・チャクラ(仙骨叢部)

第三輪 マニプーラ・チャクラ(臍部)

第四輪 アナーハタ・チャクラ(心臓部)

ヴィシュヌ結節

第五輪 ヴィシュッダ・チャクラ(咽頭部)

第六輪 アージャニュー・チャクラ(眉間部)

ルドラ結節

第七輪 サハスラーラ・チャクラ(頭頂部)

 

4セットを何回も繰り返してなれたら、それに合わせてアジャパジャパ(マントラを声を出さずに唱えること)で「オームナマシヴァーヤ」を唱えるようにする。容量としては、締める(オームナマシ)、ゆるめる(ヴァーヤ)、休む(オームナマシヴァーヤ)というリズムで頭の中で唱えれば、大体4秒ずつと同じになる。(107)

 

本当に確実な技法は、数少ない本物の師から実力のある弟子へと細々と伝えられてきた。逆に、いいかげんな技法は大勢の弟子を集めて派手に宣伝するので、大きな組織となり、社会的な認知度は高くなる。(217)

 

 

鏡リュウジの占星術の教科書(深く未来を知る)3

運行速度が全く異なるプログレスとトランジットで、偶然にも、ともに火星と冥王星が強烈にアスペクトしていることがおわかりいただけるでしょうか。

これが僕が星のレゾナンスと呼ぶものです。(243)

 

こうした星の動きから具体的な事件や心の成長を「予言」することはできません。ホロスコープはその人に起こる内的な、あるいはそれとシンクロする外的な変化を象徴という形で映し出すだけです。・・占星術にできるのは、そのプロセスを星のシンボルによって、常識とは異なる視点から見つめて寄り添うことだけです。・・

人生という冒険の旅は、いわゆるハッピーエンドばかりではないかもしれません。けれど人生の物語がほかの人から見て「失敗」であろうと、誰にもそれを裁くことも嗤うこともできません。なぜなら、一つ一つの人生はどんなものであれ、ほかと交換のきかないかけがいのないものなのですから(253)

 

占星術では生まれた時のホロスコープは、その人の「種子」のようなものだと考えています。そこには未来の可能性が詰め込まれていて、トランジットやプログレスといった星の巡りが作り出す季節と時間とともに、芽が吹き、葉をつけ、枝を伸ばして二つと同じ物のない「樹」へと成長していきます。(254)

 

 

 

伝奇集(ボルヘス)

交合と鏡はいまわしい、・・それらグノーシス派に属する者にとっては、可視の宇宙は、幻想か、(より正確には)誤謬である。鏡と父性はいまわしい、宇宙を増殖し、拡散させるからである。(15、トレーン、ウクバール、オルビウス・テルティウス)

 

現実にも秩序がある、という答えは無効だ。そのとおりかもしれないが、しかし現実は、われわれが究極的に認識しえない神の法則 ー換言すれば、非人間的な法則ー にしたがっている。トレーンは迷路かもしれない。だが、それは人間たちによって工夫された迷路、人間たちによって解かれるようさだめられた迷路なのだ。(39)

 

全能の神も何者かを求めており、この者もさらに上位の(あるいは、単に不可欠な同等の存在である)何者かを求めていて、これが時の終わりまでーむしろ無限にー、つまり円環的に続くという予測についてはである。(48)

 

アル・ムターシム(八度の戦いで勝ち、八人の男子と八人の女子をもうけ、八千の奴隷を残し、八年八か月と八日の間王位にあった。かのアッバス朝第八代のカリフの名前は語源的には救いを求めるものを意味する。(48)

 

・・・真実、その母歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管所、過去の証人、現在の規範と忠告、未来への警告。(66)

 

グノーシス派の宇宙生成説によれば、造物主は脚で立つことのできない赤いアダムをこね上げる。(76)

夢みていた男の夢の中で、夢みられた人間が目覚めた。(77)

おのれもまた幻にすぎないと、他社がおのれを夢見ているのだと悟った。(80)

 

バビロニアの人間はあまり思索を好まないのである。彼(バビロニア人)は、偶然のくだす判断を尊重し、それに自分の生命や希望や深刻な恐怖などを賭けるが、偶然の迷路じみた法則やそれを示す回転する球体を研究することは思いつかない。・・仮にくじ引きが偶然の強化、宇宙の内部への混沌の定期的な浸出であるならば、偶然がくじ引きの一つの段階ではなく、あらゆる段階に干渉するのは、むしろ好都合ではないか?偶然がある者の死を命じながら、その死の情況ー秘密性、公然性、一時間もしくは一世紀の期限ーは偶然に従わないというのは、おかしくはないか?(88、バニロニアのくじ)

 

図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達不可能な球体である。・・第一に図書館は永遠を超えて存在する。・・第二に正書法上の記号の数は25である。(88-89、バベルの図書館)

 

図書館は無限であり周期的である。どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、おなじ書物がおなじ無秩序さで繰り返し現れることを確認するだろう。(116、バベルの図書館)

 

「崔奔の運命は変わっていますね。」とスティーブン・アルバートがいった。「生まれは故郷の州知事で、天文学占星術に通じ、経典のたゆみない注解者で、棋士で高名な詩人で書家でした。そのすべてを棄てて、彼は一冊の保温と迷路を作ろうとしたのです。(129、八岐の園、はちまたのその)

 

「わたしの考えるところでは、あらゆる問題の中で、時間という深遠な問題ほど彼を悩まし、苦しめたものはありません。ところこれこそ、「八岐の園」のページに姿を見せていない唯一の問題なのです。時間を意味する言葉さえ使われていない。・・」

「チェスが解答である謎かけの場合、唯一の禁句は何だと思います?」・・「チェスという言葉でしょう」(135、八岐の園)

 

「時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する網目を信じていたのです。たがいに接近し、分岐し、交錯する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。・・・」

「時間は永遠に、数知れぬ未来に向かって分岐し続けるのですから、そのうちのひとつでは、わたしはあなたの敵であるはずです。」・・・

「未来はすでに存在しています」

 

「現代の」ことばや方言がそれから派生したと推定されるトレーンの祖語(ウルスプラシュ)には、名詞は存在しない。副詞的な価値を有する単音節の接尾辞(もしくは接頭辞)で修飾される、非人称動詞が存在する。一例だが、月(ルナ)に相当する単語はないが、スぺイン語でなら月にする(ルネセル)か月する(ルナル)に相当すると思われる動詞がある。月は河の上にのぼった、つまり逐語的に訳せば、上方に(アップロード)、背後に、持続的に流れる、月した、といわれる。

以上は南半球の言語についての話である。北半球の言語ーその「祖語」にかんしては、第十一巻にはごくわずかな資料しかないーにおいては、基本的な単位は動詞ではなく、単音節の形容詞である。名詞は、形容詞の積み重ねによって造られる。人々は月とは言わない。暗い=円い、上の、淡い=明るいとか、空の=オレンジ色の=おぼろのとかいう。(トレーン、ウクバール、オルビス、テルティウス、23)

 

一人の人間のすることは、いってみれば万人のすることです。ですから、ある庭園で行われた反逆が全人類の恥になっても、おかしくはないのです。また、一人のユダヤ人の磔刑が全人類を救っても、決しておかしくはないのです。(刀の形、167)

 

従来イスカリオテのユダにたいしてなされてきた解釈は、ひとつならず、すべて虚偽である。(ド・クィンシー1857年)・・ド・クィンシーは、ユダがイエス・キリストを裏切ったのは、その神性を明らかにするためであり、ローマのくびきに対する大規模な反逆の火を煽るためだ、と考えたのだった。

ルーネベルクは哲学的な証明を示唆している。巧妙にも、彼はユダの行為の無益さを指摘することから始めている。彼は(ロバートソンと同様に)、毎日のようにシナゴーグで説教し、何千人という会衆の前で奇跡を行っている師を確認するのに、使途の裏切りは必要としない、と述べている。・・・世界史の中でももっとも重大な事件の中に偶然の介在を認めることは、やはり耐え難いことだ。ゆえに(エルゴ)ユダの裏切りは偶然ではなかった。それは救済の営みの中に神秘な場所を占める、予定された行為だった。・・・つまり神言は肉となったとき、偏在から空間へ、永遠から歴史へ、無限の至福から変転と死へち変わったのだ。このような犠牲に応えるためには、一人の人間があらゆる人間を代表して、ふさわしい犠牲を払うことが必要だった。イスカリオテのユダこそ、その人間である。使徒たちのなかでユダ一人が、イエスの隠れた神性と恐るべき意図を直感した。神言は人間に身を落とされた。神言の弟子であるユダも身を落として密告者となりーこの最悪の罪に耐えうるのは汚辱そのものだー、消えることのない火に身をゆだねることができるだろう。

下位の秩序は上位の秩序の鏡である。地上のもろもろの形は天上のもろもろの形に相応する。皮膚のしみは清らかな星座の地図である。ユダはある意味でイエスの写しである。このことから、三十枚の銀貨とくちづけが生じたのだ。このことから意志的な死が生じて、いっそう永罰にふさわしいものとされたのだ。(ユダについての三つの解釈、215ー216)

 

 

サトル・ボディのユング心理学

布置とは、深く隠された動きをこの世に実現するための働きである。・・ひとつの布置が生ずると、ある元型に含まれている内容が、私自身に生起するだけでなく、私の周囲にも現れてくる。大袈裟に言えば、本書をこうして手に取った方はすべて、私ともどもある動きを実現していくべく、同じ布置の中に居合わせているのかもしれない。(14-15)

 

具体的な教えのなかには、クンダリニー・ヨーガも含まれていた。洗練されたサトル・ボディを獲得するための瞑想技術である。それこそ、教祖の著書に書いてあった修行法を読んで実践しただけでクンダリニーが覚醒したという元信徒もいる。(参考文献8:「オウムをやめた私たち」(岩波書店)(41)

 

アブラクサスは、キリスト教の異端、グノーシス派におけるもっとも重要な神である。多くの場合、頭が牡鶏またはライオン、からだは人間と同じで、脚は蛇とされており、手には鞭を持っている。この神は基本的に太陽と蛇の属性を持ち、世界の創造者にして破壊者である。一方アイオーンは、キリスト教のライバルであったミトラ教の神で、別名をデウス・レオントケファルス(ライオンの頭をした神)という。神の頭は文字通りライオンで、下半身から胸のあたりにかけては大きな蛇が巻き付いている。(102)

 

「プルシャ」・・一般には、アートマンの概念の先駆として、究極の全体性を担う象徴と考えられているが、ほかにも、いわゆる原人(アントロポス)のイメージと重なりがある。「原人」とは、その巨大な(つまり宇宙大の)からだの各部位から世界の様々なものが化成することになる始原的存在であり、原世界、原宇宙と考えればよい。

ユダヤ神秘主義カバラ)のアダム・カドモン、ペルシャ創世神話のガヨマルト(103)

 

占いは、この原理(共時性)にそってなされる行為の代表だろう。占いは本来、宇宙大の運行の状況を読み取り、もって小宇宙たる人間の進むべき方向性を知る方法である。大小二つの宇宙はひとつの全体の一部であり、したがって本質的に同一の状況にある。根っこは同じなのだ。だから、ある日の易で出た卦は、大宇宙の状況に照応して布置されているはずであり、その人の個人的な状況とも共時的な一致が生じうる。(125)

 

竹取物語の主たるモチーフは、いわゆる白鳥処女説話と考えてよい。これは別名、羽衣説話、天人女房説話などともよばれるものである。この点を念頭に置いてみていくと、展開が多少とも理解しやすくなると思う。(166)

 

天人は、天の羽衣と不死の薬を持っており、かぐや姫に穢れたところのものを食べていたから気分が悪いでしょう、といって、薬をなめさせる。(169)

 

 

竹を伐れば黄金が手に入る翁。・・錬金術が物質としての黄金のみならず、永遠のからだ(グロリファイド・ボディ)や不老不死を求める技術であったことはすでに述べておいたが、竹取の翁は、しまいには、(帝と同様に)不死の仙薬さえ手に入れてくる。かぐや姫の遺した形見の薬である。・・

竹取物語の主人公は、いうまでもなく竹取の翁とかぐや姫、いわゆる老翁と処女のペアである。この事実は、「不死」が見た目以上に重要なテーマとなっていることを暗示している。老いた者が生きながらえると、あるいは不死を獲得するためには、処女の愛が必要なのだ。老翁と処女は、そういう背景のもとで元型的に現れるペアである。このペアの存在からも、竹取物語が一種の錬金術書、すなわちサトル・ボディの生成に関する秘密を綴った物語であることが見て取れよう。(170)

 

錬金術には、「腐敗堕落したアルカヌム」という概念がある。「アルカヌム」とは、錬金術の究極目標とされている秘密の物質を意味する。未分化のものは第一質量、分化したものは賢者の石、あるいは哲学者の石と呼ぶ。・・・しかし、アルカヌムはたとえ見出されたとしても、すぐに変質して純粋さを失ってしまうのだという。それが「腐敗堕落した」といわれる所以である。この「堕落」なる言葉に罪悪のニュアンスがあることにご注目いただきたい。これを「老いた王」というイメージで表現する場合もある。

・・本来、永遠であるはずのアルカヌムにも今述べたような腐敗堕落がある。では、老王がそれからどうなるかというと、実はみずからの息子となるのだ。すなわち生命力を更新して若返るのである。(173)

 

 

錬金術では、サトル・ボディの誕生のために王と女王の聖婚が欠かせない。(挿絵「賢者の薔薇園」、「結合」」)・・

ユングはいう、象徴としてみた場合、近親相姦とは、自分自身の本質との結合、つまり個性化を表しているのだ、と。近親相姦は、古代エジプトに顕著にみられるように、王族の特権であった。ファラオが始原の神々と同一視されたがゆえの特権である。始原の神々とは、みずからより生まれ、みずからによって存在するものであるがゆえに、自分自身の本質を近親相姦的に結合している存在なのだ。錬金術における王と女王の聖婚も、このような象徴学にもとづいている。(174)

 

彼(竹取の翁)が老や不老にまつわる何らかの変容を必要としていたからであろう。ユング的には、人生後半の課題に直面したためといえる。一般に自我は、どういうわけか、あるとき突然、否応なく個性化のプロセスを生きるよう仕向けられる。個性化という仕事のはじまりは常にそういうものだ。・・そのとき自我は、時空人の浄化と再生に関りを持ち、それによって変容し救われていく。(178)

 

あの「ギルガメシュ叙事詩」のラストシーンは示唆的である。主人公である英雄王ギルガメシュは、冒険のはてに念願の不死の薬を手に入れたが、ちょっとした油断からこの薬を失ってしまう。犠牲にしてきたものが大きかっただけに、ギルガメシュの落胆は深い。しかし、考えようによっては、それでよかったとも言えるのだ。彼が不死の薬を手に入れたというよりも、不死の薬のほうが彼を手に入れ、操ろうとしていたのかもしれないのだから。(188)

 

七つの夜(ボルヘス)

最後のローマ人と呼ばれたボエティウス、執政官ボエティウスは、競馬を見ているひとりの観客を想定します。

その観客は競馬場にいて、観覧席から馬がスタートし、レースが展開する有様、馬の一頭がゴールに入る模様のすべてを連続的に見ています。しかし、ボエティウスはもうひとりの観客を想定します。そのもうひとりの観客とは、観客とレースの両方を見ている観客です。

それはもちろん神です。神にはレースのすべてが見える。永遠の一瞬において、一瞬の永遠において、馬のスタート、レースの展開、ゴールが見えるのです。何もかもが一瞬にして見え、同様にして世界の歴史全体が見えるのです。(47)


 

オデッセイアの中に、角の門と象牙の門という二つの門について語られている一節があります。象牙の門を通って人々のところへ偽りの夢がやってくるのに対し、角の門をとって真のあるいは予言的な夢がやってくるのです。(53)

 

悪夢の英語名であるthe nightmareが出てきましたが、これは「夜の雌馬」を意味します。・・・

また、私たちに役立ちそうな別の解釈があり、それは英語のnightmareという言葉をドイツ語のmarchenと関連付けようとする。メルヘンは、寓話、おとぎ話、作り話を意味します。(55)

 

(仏教において)本質的なことは、我々の運命が我々のカルマもしくはカルマンによってあらかじめ決められているということを信じることなのです。(121)

 

ガンジーは病院の建設に反対しました。・・病院や慈善事業は単に負債の返済を遅らせるだけだ、ほかの人間を助けてはならない、他の人間が苦しんでいるとすれば、彼らは苦しまなければならない。(122)

 

それ(涅槃・ニルバーナ)はむしろ島に喩えられます。嵐の真っただ中にある不動の島です。あるいは高い塔に喩えられたり、庭園に喩えられたりすることもあります。それは私たちとは無関係に、それ自体で存在しているのです。(130)

 

ペルシアの隠喩で、月は時の鏡なりというものです。「時の鏡」という言い回しには、月のはかなさと永遠性が同居している。ほとんど透明で、無に近いけれど、その寸法は永遠に変わらないという、月に備わる矛盾がそこにはあります、(136-137)

 

ラテン語では「発明する」という言葉と「発見する」という言葉は同意語です。こういったことはすべてプラトンの学説に一致していて、発明する、発見するといえば、それは思い出すことなのです。(140-141)

 

美学的事実というのは、愛や果物の味や水と同じぐらいはっきりしてて、直接的で、定義不可能です。(143)

 

私そのものが影、天にある原型の影なのです。その影の影を作ってどうなりましょう。(154)

 

あるピタゴラス学派の人間が、ピタゴラスの教えにはおそらく含まれていない学説、たとえば円環的な時間の理論を唱えたとします。そして、「そんなことは教えの中にない」と言って攻撃されたとき、彼は「マギステル・ディクシット(magister dixit・師曰く)」と答える。そうすることで彼は教えを刷新できるのです。書物は束縛するとピタゴラスは考えた、あるいは聖書の言葉を用いるならば、文字は人を殺し、例は人を生かす、と。(173)

 

十の流出はアダム・カドモーンという名の原型的人間(オンプレ・アルェティポ)が作ります。その人間は天にいて、私たちのは彼の反映なのです。

十の流出からなるその人間は、世界を一つ流出し、さらにもうひとつと、合計四つの世界を流出します。そのうちの三つ目が私たちの物質界で、四つ目はこれから述べる悪の世界です。

すべては、アダム・カドモーンのうちに含まれている。彼は人間とその小宇宙、すなわちありとあらゆるものを含んでいるのです。

・・このカバラの教説にはひとつ使い途がある。それは私たちが宇宙のことを考え、理解しようとするうえで役に立つのです。

グノーシス派が現れたのはカバラ主義者より何世紀も前ですが、彼らも類似した教説を持ち、それは不確定な神を措定しています。プレロマ(十全なるもの)と呼ばれる神から別の神が流出し、・・そしてその神から流出があり、その流出から別の流出があり、その別の流出からさらに別の流出がある。

それらの流出の各々がひとつの天となります。(流出は塔を作っているのです)

その数は365ある。というものも、ここには占星術が混入しているからです。そして最後の流出、神性がゼロに近いその流出に至るとき、私たちは、この世界を創造した、エホバという名の神と出会うことになります。(181-182)

 

ゴーレム伝説(189-190)

 

カバラギリシャ人が「apokatastasis(アポカタスシス)」と呼んだ教義を教えてくれました。その教義によれば、カインや悪魔を含め、ありとあらゆる被造物は、長い転生の果てに、かつてそれが現れ出たところの神性と、ふたたび混じり合うことになるのです。(191)

 

デミアン(ヘルマン・ヘッセ)

たとえば、チョウ類の中のある蛾に、雄より雌がずっと少ないのがある。チョウ類は動物と同じようにして繁殖する。つまり雄が雌をはらませ、雌が卵を産む。

さて君がこの蛾の雌を一匹持っているとするとー自然科学者によってたびたび実験されたことだがー夜その雌のところに雄が飛んでくる。しかも数時間もかかるところを!数時間もかかるところだよ、きみ!幾キロも離れていても雄はみんな、その辺にいるただ一匹の雌をかぎつける!その説明が試みられているが、それは困難だ。

一種の嗅覚が、あるいはなにかそんなものに違いない。より猟犬が目につかない足跡を見つけて追及することができるようなものだ。わかるかい?そうしたことなんだが、そういうことは自然界にはいっぱいある。そしてそれは誰にも説明できない。

だが、ところでね、その蛾にしても、雌が雄と同じように頻繁にいたら、鋭敏な鼻を持ちはしないだろう。そういう鼻をもっているのは、訓練したからにほかならないんだ。

動物、あるいは人間も、彼の全注意と全意思をある一定の事物に向けると、同じようになれるんだ。(84-85)

 

ここに宗教の欠陥をきわめて明らかに見うる点の一つがあるんだ。

旧約と新約の、この神全体は、なるほどりっぱなものであるけれど、それが本来あらわすべきところのもではないということが問題なのだ。その神はよいもの、気高いもの、父らしいもの、美しいもの、高いもの、多感なものでもある。ーまったくそれで結構だ。

しかし世界はほかのものからも成り立っている。そして、それはすべて無造作に悪魔のものに帰せられている。世界のこの部分全体、この半分全体が、ごまかされ、黙殺されている。彼らは神を一切の生命の父とたたえながら、生命の基である性生活というものをすべてどんなに無造作に黙殺し、あるいは悪魔の仕業だとか、罪深いことだとか説明していることだろう。・・・

だが、この人工的に引き離された、公認された半分だけでなく、全世界をいっさいをあがめ重んじるべきだ、とぼくは思うんだ。そこでつまり、神の礼拝とならんで悪魔の礼拝を行わなければならない。・・悪魔を包含している神を創造しなければならないだろう。・・この世の最も自然なことが起きるのだとすれば。(93-94)

 

放蕩者の生活は神秘主義者になる最上の準備の一つなんだ。(129)

 

できあがったのは、するどい精悍なハイタカの頭をした猛鳥だった。それは半身を暗い地球の中に入れ、その中からさながら、大きな卵から出ようとするかのように、苦心して抜け出ようとしていた。背景は青い空だった。その絵をながく見つめていればいるほど、それは夢の中にでてきた彩色の紋章であるように思われた。(134)

 

「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。」(136)

 

「われわれは古代のあの宗派や神秘的な団体の考えを、合理主義の観点から見て素朴に見えるように、それほど素朴に考えてはならない。古代は、われわれの意味での科学というものはぜんぜん知らなかった。そのかわり、非常に高く発達した哲学的神秘的心理が研究されていた。その一部から魔術と遊戯とが生じ、しばしば詐欺や犯罪になりさえした。しかし、魔術でも高貴な素性と深い思想を持っていた。さっき例にひいてアプラクサスの教えもそうであった。人々は、この名をギリシャの呪文と結び付けて呼び、今日なお野蛮な民族が持っているような魔術師の悪魔の名前だと思っているものが多い。

しかし、アプラクサスはずっと多くのものを意味しているように思われる。われわれはこの名をたとえば、神的なものと悪魔的なものとを結合する象徴的な使命を持つ、一つの神性の名と考えることができる。」(138-139)

 

きみが生まれつきコウモリに造られているとしたら、ダチョウになろうなどと思ってはいけない。きみはときどき自分を風変りだと考え、たいていの人たちと違った道を歩んでいる自分を非難する。そんなことは忘れなければいけない。火を見つめたまえ、雲を見つめたまえ。予感がやってきて、君の魂の中の声が語り始めたら、それにまかせきるがいい。(163)

 

人は自分自身の腹がきまっていない場合にかぎって不安を持つ。彼らは自分自身の立場を守る決意表明したことがないから、不安をもつのだ。自分自身の内部の未知なものに対して不安を持つ人間ばかりの団体だ!彼らはみな、自分らの生活の法則がもはや適合しないこと、自分たちの古いおきての表に従って暮らしていること、宗教も道徳も何一つ、われわれの必要とするものに適応しないことを感じている。(202)

 

来るべきものは突然現れるでしょう。そのときぼくたちは、知る必要のあることはきっと経験するでしょう。(232)

 

あれから三度新しい前兆を見た。・・これはほんの始まりだ。おそらく大戦争になるだろう・・・古いものに執着している人たちにとっては、新しいものは恐ろしいだろう。(236)