NAVERまとめで作った記事の残骸を保存したものと読書の記録

NAVERまとめをエクスポートした記事と読書の記録

夢の劇場

多種多彩な夢が人間の意識は肉体とは別個に存在しうることを示している。これはすなわち、原始人が自分たちを本質的に二つの世界に存在する者ー目覚めている実体として昼に生きる夢と夢を見る魂として夜にあらわれる者ーとして考えはじめたことを意味する。(161)

 

彼ら(北アメリカの部族)は、夢を内的な存在が別の世界を旅することだと捉えており、あまりにも現実性と実質があるために、夢の中の出来事はすべて目覚めている状態にも同様の影響を及ぼすのである。(165)

 

知覚の障壁を破るには。通常はかなりの力の心理的なもうだが必要であり、導師の苛烈極まりない振る舞いにまつわる多くの話や、弟子が師を信頼しなければならないと主張されるわけが、これによって説明づけられる。(182)

 

神秘家の世界には、自由と悟りに向かうまったく異なった二つの道、あるいは径路があるようだ。それらは意志の道と降伏の道である。

まずもって修行と支配が不可欠だ。特定の手順をたゆまず繰り返すことで、ゆっくりしたものであれ、着実に、われわれ自身の日常存在の幻影を維持する意識を持った精神が疲労する。精神は純然たる粘りには堪えられないようだ。その結果、これを実践する者は疲労困憊するにせよ、精神は屈服する。

降伏の道においては、戦ったり流れに逆らったりせず、流れに従ったり、風に吹かれるまま体を曲げたりする。いずれの道も最終的には同じ目覚めに至るようだ。呪術師と神秘家の本質的なちがいは、これらの道の対極性にある。(184-185)

 

フイ=ネンは、霊的探究を忘れ果てていたが、その精神は緊張を解いており、おのずから自然に悟りが開かれた。寺で努力している僧侶たちは、フイ=ネンが身に着けていること ー努力しないでいることー を欠いていた。(187)

 

エネルギー組織の最悪の穴は、エゴ、すなわち個々の実体の社会的な仮面である誤った自己感覚である。われわれはこの幻影のペルソナを真の自己であると確信しているが、ペルソナは自らつくりだしたドラマや自尊心のために常に注意を必要とするため、最大のエネルギー排出口なのである。利用できるエネルギーの大半が、尊敬されたい、愛されたい、認められたいという果てしない欲求とともに、自分が価値ある存在だという感覚を補強するため、エゴの配管を流れ落ちていく。この不断の排出がなければ、われわれを包み込むとととみに恐ろしい幻影の自己を作り出している、常習的な知覚の牢獄を破れるほどのエネルギーがはるはずだ。(191)

1 夢から自然に目覚めた早朝のうちに、記憶してしまうまで、何度も夢を思い返すこと

2 ベッドに横たわって眠りに戻るとき、「今度夢を見ているときは、忘れずに夢を見ていることを認識したい」と自分に言い聞かせる

3 夢に戻ったことを思い浮かべ、今度は自分が夢を見ていることを認識しているのを確かめる

4 あなたの意図が固定するか眠り込むまで、2と3を繰り返す

ラバージは興味深い関係を作り出している。この訓練にかかわる精神状態は、われわれが特定の時間に目覚めようとするときに採用するものに酷似しているのだ。(224)

 

エゴは自らつくった要塞から絶えず斥候を送り出し、領域を広げられるかどうか、避けるべき脅威があるかどうかを探っている。斥候が持ち帰る情報は、チベット人が三つの根本的な毒と考えるものになる。エゴを強化し、その領域を広げることのできるものは情報の魅力であり、外部の驚異的な力に反応するのは攻撃であり、強化することも脅すこともできないものはすべて無知にあると考えられる。これら三つー情熱、攻撃、無知ーから、一連の複雑なプロットやサブプロット全体が生じ、それがエゴを完全に夢中にさせる。この基本的な三つに、増長と弁別が加わる。(233・・三毒

 

チベット死者の書」そのものは、不思議にも実際には死に基づくものではない。再誕の書と呼ぶべきものであって、おそらく「チベットの夢の書」と呼ぶのが最もふさわしいだろう。・・「死者の書」が述べているのは、そうした痕跡(死の修行は死者が残す霊的な力にかかわっている)に基づいて行動することではなく、バルドゥ、すなわち死の際に起こる亀裂ないしは間隙を扱っている。

しかしバルドゥは現象世界を扱う時の状況全体の一部なのである。バルドゥにおいて、われわれは人生を維持している幻影全体に出会うことができる。この幻想のマトリックスは死の際にふたたび出会うことになる。

チベット仏教徒は我々が宇宙の構造全体を創造すると主張する。死の際にわれわれは六つの段階としてあらわれるものによってこの事実を示される。これらは地獄、飢餓、畜生、阿修羅、人間、天という、六つの心理学的な幻影の領域(六道)に対応している。

われわれはこうした幻影をそのままに認識(投影)するか、あるいはそれらに同一化するようになって、ふたたび幻影の人生の輪廻に加わることになる。(243・・六道)

 

光の修行・・この技法はゾクチェン派が「自然光の修行」の一部として用いる瞑想である。・・あなたの体の中心にチベットの文字Aを思い浮かべて、そこに精神を集中する。(245・・阿字観)

 

6つのバルドゥ(間隙)があり、そのすべてを明晰夢によって調べることができる。

最初のバルドゥは通常の意識の覚醒時の状態である。第二のバルドゥはわれわれが眠っているときの夢の時間だ。第三のバルドゥは瞑想の状態で、すべての認識をふくむ。第四のバルドゥは体の五つの要素がたがいに溶けこんでいく死のプロセスである。(247)

 

眉間に意識を集中すべし。

心を思念のまえに置くべし。

息の本質を頭頂部にいたるまで満たし、光を浴びるべし

(262)

 

この夢と現実の曖昧さは、ソクラテスが提起したテーマの一つだった。プラトンの「テアイテトス」においては、ギリシャの賢人は次のように問いかけた。

誰がいまこの現在において、われわれは眠っているのか、われわれの考えていることはすべて夢なのか、それともわれわれは目覚めていて、お互いに話し合っているのは現実なのかとたずねたら、人はこれに応じることができるのだろうか。