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伝奇集(ボルヘス)

交合と鏡はいまわしい、・・それらグノーシス派に属する者にとっては、可視の宇宙は、幻想か、(より正確には)誤謬である。鏡と父性はいまわしい、宇宙を増殖し、拡散させるからである。(15、トレーン、ウクバール、オルビウス・テルティウス)

 

現実にも秩序がある、という答えは無効だ。そのとおりかもしれないが、しかし現実は、われわれが究極的に認識しえない神の法則 ー換言すれば、非人間的な法則ー にしたがっている。トレーンは迷路かもしれない。だが、それは人間たちによって工夫された迷路、人間たちによって解かれるようさだめられた迷路なのだ。(39)

 

全能の神も何者かを求めており、この者もさらに上位の(あるいは、単に不可欠な同等の存在である)何者かを求めていて、これが時の終わりまでーむしろ無限にー、つまり円環的に続くという予測についてはである。(48)

 

アル・ムターシム(八度の戦いで勝ち、八人の男子と八人の女子をもうけ、八千の奴隷を残し、八年八か月と八日の間王位にあった。かのアッバス朝第八代のカリフの名前は語源的には救いを求めるものを意味する。(48)

 

・・・真実、その母歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管所、過去の証人、現在の規範と忠告、未来への警告。(66)

 

グノーシス派の宇宙生成説によれば、造物主は脚で立つことのできない赤いアダムをこね上げる。(76)

夢みていた男の夢の中で、夢みられた人間が目覚めた。(77)

おのれもまた幻にすぎないと、他社がおのれを夢見ているのだと悟った。(80)

 

バビロニアの人間はあまり思索を好まないのである。彼(バビロニア人)は、偶然のくだす判断を尊重し、それに自分の生命や希望や深刻な恐怖などを賭けるが、偶然の迷路じみた法則やそれを示す回転する球体を研究することは思いつかない。・・仮にくじ引きが偶然の強化、宇宙の内部への混沌の定期的な浸出であるならば、偶然がくじ引きの一つの段階ではなく、あらゆる段階に干渉するのは、むしろ好都合ではないか?偶然がある者の死を命じながら、その死の情況ー秘密性、公然性、一時間もしくは一世紀の期限ーは偶然に従わないというのは、おかしくはないか?(88、バニロニアのくじ)

 

図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達不可能な球体である。・・第一に図書館は永遠を超えて存在する。・・第二に正書法上の記号の数は25である。(88-89、バベルの図書館)

 

図書館は無限であり周期的である。どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、おなじ書物がおなじ無秩序さで繰り返し現れることを確認するだろう。(116、バベルの図書館)

 

「崔奔の運命は変わっていますね。」とスティーブン・アルバートがいった。「生まれは故郷の州知事で、天文学占星術に通じ、経典のたゆみない注解者で、棋士で高名な詩人で書家でした。そのすべてを棄てて、彼は一冊の保温と迷路を作ろうとしたのです。(129、八岐の園、はちまたのその)

 

「わたしの考えるところでは、あらゆる問題の中で、時間という深遠な問題ほど彼を悩まし、苦しめたものはありません。ところこれこそ、「八岐の園」のページに姿を見せていない唯一の問題なのです。時間を意味する言葉さえ使われていない。・・」

「チェスが解答である謎かけの場合、唯一の禁句は何だと思います?」・・「チェスという言葉でしょう」(135、八岐の園)

 

「時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する網目を信じていたのです。たがいに接近し、分岐し、交錯する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。・・・」

「時間は永遠に、数知れぬ未来に向かって分岐し続けるのですから、そのうちのひとつでは、わたしはあなたの敵であるはずです。」・・・

「未来はすでに存在しています」

 

「現代の」ことばや方言がそれから派生したと推定されるトレーンの祖語(ウルスプラシュ)には、名詞は存在しない。副詞的な価値を有する単音節の接尾辞(もしくは接頭辞)で修飾される、非人称動詞が存在する。一例だが、月(ルナ)に相当する単語はないが、スぺイン語でなら月にする(ルネセル)か月する(ルナル)に相当すると思われる動詞がある。月は河の上にのぼった、つまり逐語的に訳せば、上方に(アップロード)、背後に、持続的に流れる、月した、といわれる。

以上は南半球の言語についての話である。北半球の言語ーその「祖語」にかんしては、第十一巻にはごくわずかな資料しかないーにおいては、基本的な単位は動詞ではなく、単音節の形容詞である。名詞は、形容詞の積み重ねによって造られる。人々は月とは言わない。暗い=円い、上の、淡い=明るいとか、空の=オレンジ色の=おぼろのとかいう。(トレーン、ウクバール、オルビス、テルティウス、23)

 

一人の人間のすることは、いってみれば万人のすることです。ですから、ある庭園で行われた反逆が全人類の恥になっても、おかしくはないのです。また、一人のユダヤ人の磔刑が全人類を救っても、決しておかしくはないのです。(刀の形、167)

 

従来イスカリオテのユダにたいしてなされてきた解釈は、ひとつならず、すべて虚偽である。(ド・クィンシー1857年)・・ド・クィンシーは、ユダがイエス・キリストを裏切ったのは、その神性を明らかにするためであり、ローマのくびきに対する大規模な反逆の火を煽るためだ、と考えたのだった。

ルーネベルクは哲学的な証明を示唆している。巧妙にも、彼はユダの行為の無益さを指摘することから始めている。彼は(ロバートソンと同様に)、毎日のようにシナゴーグで説教し、何千人という会衆の前で奇跡を行っている師を確認するのに、使途の裏切りは必要としない、と述べている。・・・世界史の中でももっとも重大な事件の中に偶然の介在を認めることは、やはり耐え難いことだ。ゆえに(エルゴ)ユダの裏切りは偶然ではなかった。それは救済の営みの中に神秘な場所を占める、予定された行為だった。・・・つまり神言は肉となったとき、偏在から空間へ、永遠から歴史へ、無限の至福から変転と死へち変わったのだ。このような犠牲に応えるためには、一人の人間があらゆる人間を代表して、ふさわしい犠牲を払うことが必要だった。イスカリオテのユダこそ、その人間である。使徒たちのなかでユダ一人が、イエスの隠れた神性と恐るべき意図を直感した。神言は人間に身を落とされた。神言の弟子であるユダも身を落として密告者となりーこの最悪の罪に耐えうるのは汚辱そのものだー、消えることのない火に身をゆだねることができるだろう。

下位の秩序は上位の秩序の鏡である。地上のもろもろの形は天上のもろもろの形に相応する。皮膚のしみは清らかな星座の地図である。ユダはある意味でイエスの写しである。このことから、三十枚の銀貨とくちづけが生じたのだ。このことから意志的な死が生じて、いっそう永罰にふさわしいものとされたのだ。(ユダについての三つの解釈、215ー216)