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サトル・ボディのユング心理学

布置とは、深く隠された動きをこの世に実現するための働きである。・・ひとつの布置が生ずると、ある元型に含まれている内容が、私自身に生起するだけでなく、私の周囲にも現れてくる。大袈裟に言えば、本書をこうして手に取った方はすべて、私ともどもある動きを実現していくべく、同じ布置の中に居合わせているのかもしれない。(14-15)

 

具体的な教えのなかには、クンダリニー・ヨーガも含まれていた。洗練されたサトル・ボディを獲得するための瞑想技術である。それこそ、教祖の著書に書いてあった修行法を読んで実践しただけでクンダリニーが覚醒したという元信徒もいる。(参考文献8:「オウムをやめた私たち」(岩波書店)(41)

 

アブラクサスは、キリスト教の異端、グノーシス派におけるもっとも重要な神である。多くの場合、頭が牡鶏またはライオン、からだは人間と同じで、脚は蛇とされており、手には鞭を持っている。この神は基本的に太陽と蛇の属性を持ち、世界の創造者にして破壊者である。一方アイオーンは、キリスト教のライバルであったミトラ教の神で、別名をデウス・レオントケファルス(ライオンの頭をした神)という。神の頭は文字通りライオンで、下半身から胸のあたりにかけては大きな蛇が巻き付いている。(102)

 

「プルシャ」・・一般には、アートマンの概念の先駆として、究極の全体性を担う象徴と考えられているが、ほかにも、いわゆる原人(アントロポス)のイメージと重なりがある。「原人」とは、その巨大な(つまり宇宙大の)からだの各部位から世界の様々なものが化成することになる始原的存在であり、原世界、原宇宙と考えればよい。

ユダヤ神秘主義カバラ)のアダム・カドモン、ペルシャ創世神話のガヨマルト(103)

 

占いは、この原理(共時性)にそってなされる行為の代表だろう。占いは本来、宇宙大の運行の状況を読み取り、もって小宇宙たる人間の進むべき方向性を知る方法である。大小二つの宇宙はひとつの全体の一部であり、したがって本質的に同一の状況にある。根っこは同じなのだ。だから、ある日の易で出た卦は、大宇宙の状況に照応して布置されているはずであり、その人の個人的な状況とも共時的な一致が生じうる。(125)

 

竹取物語の主たるモチーフは、いわゆる白鳥処女説話と考えてよい。これは別名、羽衣説話、天人女房説話などともよばれるものである。この点を念頭に置いてみていくと、展開が多少とも理解しやすくなると思う。(166)

 

天人は、天の羽衣と不死の薬を持っており、かぐや姫に穢れたところのものを食べていたから気分が悪いでしょう、といって、薬をなめさせる。(169)

 

 

竹を伐れば黄金が手に入る翁。・・錬金術が物質としての黄金のみならず、永遠のからだ(グロリファイド・ボディ)や不老不死を求める技術であったことはすでに述べておいたが、竹取の翁は、しまいには、(帝と同様に)不死の仙薬さえ手に入れてくる。かぐや姫の遺した形見の薬である。・・

竹取物語の主人公は、いうまでもなく竹取の翁とかぐや姫、いわゆる老翁と処女のペアである。この事実は、「不死」が見た目以上に重要なテーマとなっていることを暗示している。老いた者が生きながらえると、あるいは不死を獲得するためには、処女の愛が必要なのだ。老翁と処女は、そういう背景のもとで元型的に現れるペアである。このペアの存在からも、竹取物語が一種の錬金術書、すなわちサトル・ボディの生成に関する秘密を綴った物語であることが見て取れよう。(170)

 

錬金術には、「腐敗堕落したアルカヌム」という概念がある。「アルカヌム」とは、錬金術の究極目標とされている秘密の物質を意味する。未分化のものは第一質量、分化したものは賢者の石、あるいは哲学者の石と呼ぶ。・・・しかし、アルカヌムはたとえ見出されたとしても、すぐに変質して純粋さを失ってしまうのだという。それが「腐敗堕落した」といわれる所以である。この「堕落」なる言葉に罪悪のニュアンスがあることにご注目いただきたい。これを「老いた王」というイメージで表現する場合もある。

・・本来、永遠であるはずのアルカヌムにも今述べたような腐敗堕落がある。では、老王がそれからどうなるかというと、実はみずからの息子となるのだ。すなわち生命力を更新して若返るのである。(173)

 

 

錬金術では、サトル・ボディの誕生のために王と女王の聖婚が欠かせない。(挿絵「賢者の薔薇園」、「結合」」)・・

ユングはいう、象徴としてみた場合、近親相姦とは、自分自身の本質との結合、つまり個性化を表しているのだ、と。近親相姦は、古代エジプトに顕著にみられるように、王族の特権であった。ファラオが始原の神々と同一視されたがゆえの特権である。始原の神々とは、みずからより生まれ、みずからによって存在するものであるがゆえに、自分自身の本質を近親相姦的に結合している存在なのだ。錬金術における王と女王の聖婚も、このような象徴学にもとづいている。(174)

 

彼(竹取の翁)が老や不老にまつわる何らかの変容を必要としていたからであろう。ユング的には、人生後半の課題に直面したためといえる。一般に自我は、どういうわけか、あるとき突然、否応なく個性化のプロセスを生きるよう仕向けられる。個性化という仕事のはじまりは常にそういうものだ。・・そのとき自我は、時空人の浄化と再生に関りを持ち、それによって変容し救われていく。(178)

 

あの「ギルガメシュ叙事詩」のラストシーンは示唆的である。主人公である英雄王ギルガメシュは、冒険のはてに念願の不死の薬を手に入れたが、ちょっとした油断からこの薬を失ってしまう。犠牲にしてきたものが大きかっただけに、ギルガメシュの落胆は深い。しかし、考えようによっては、それでよかったとも言えるのだ。彼が不死の薬を手に入れたというよりも、不死の薬のほうが彼を手に入れ、操ろうとしていたのかもしれないのだから。(188)