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虹と水晶

人は、危害をうけるのではないかと想像し、その想像上の危害から自分を守ろうとする、自己防衛本能を持っている。だが、自己防衛のための努力は、結局それまで以上の苦痛をもたらす。自己と他者という、狭苦しい二元論的ビジョンに縛られることになるからである。
最も恐ろしいものを呼び出し、ふつう一番守りたいと思っているものをあからさまに供物として捧げてしまうことによって、チュウは、自我と肉体への執着という二重の束縛を、一気に切断する。

実際、チュウという名前は、「切断する」という意味を持っているのである。だが、切断してしまわねければならないのは執着であり、肉体そのものではない。人間の肉体は、悟りを得るための貴重な乗り物だと考えられているのである。(72)

 

自分自身の心の中以外に仏陀を見出すのは不可能だ。このことを知らないのは、それを外に探しに行くことだろう。だが、自分自身の内側を探し求めていく以外に、自分自身を見出すことができるだろうか。自らの本質を外側に求めるものは、たくさんの人に囲まれて演じながら、自分が誰だったか忘れてしまい、そこいらじゅうを探し回っている愚か者のようだ。(パドマサンバヴァ「完璧な覚醒をもってみることによる自己解脱の書」(83)

 

土台ないしチベット語の「シ」(gZhi)という言葉は、宇宙および個人の両方のレベルにおいて、存在の根本的土台になっているものを指している。宇宙も個人もその本質は同じだから、一方を悟れば、もう一方も悟ることになる。みずからを悟れば、宇宙の本質も悟ることになるのである。(84)

 

ひとりひとりの生き物の条件づけられたあり方が、カルマの痕跡から生じてくるのと同じように、宇宙もカルマの痕跡によって生じてくる。

たとえば、古代チベットボン教占星術によれば、現在の宇宙が創造される以前にあった空間は、すでに破壊された前回の宇宙のサイクルに存在したものから残された、潜在的なカルマの痕跡だという。(88)

 

チベット仏教では、どのレベルの教えにおいても、生き物は、身、口、意の三要素からなっていると考える。この三者の完璧な境地は、オーム、アー、フームというチベットの音節文字によって、それぞれ象徴されている。

身というのは、その生き物の物質的な次元すべてを指す。これに対して、口は、サンスクリットではプラーナ、チベット語ではルン(rlung)と呼ばれる。体に生命力を与えるエネルギーであり、その循環は呼吸と結びついている。

意は、理性的思考に基づく表層的な意識と、心の本然の両方を含む。心の本然は、理性を超えているのである。

普通の生き物は、身、口、意はひどい制約を受けている。そのため完全に二元論にとらわれ、二元的にリアリティを見ることになる。この二元論的な見方を、不純な、ないしカルマ的な顕現と呼ぶ。カルマの因、すなわち過去の行為の結果は、たえず生じ続けている。それに制約され、ついには、まるで鳥籠の中の鳥のように、自分の制限づけられた世界に閉じ込められたまま、意規定ことになるからである。(92)

 

この空性は、たとえて言えば、鏡の持つ根源的な清浄さと、透明さのようなものだ。ラマは、弟子に鏡を見せて説明する。鏡そのものは、自分にうつしだされるものを、美しいとも醜いとも判断しない。どんな像がうつっても、鏡は不変のままだし、それによって鏡の反射能力がそこなれることはない。

心の空性は、鏡と同じ性質を持ち、清浄で透明な輝きに満ちている。何がそこに生じようとも、空である心の本性は決して失われたり、そこなわれたり、あるいは曇らされたりすることはないのである。(95-96)

 

私たちは、自分の自我を相手に、ありとあらゆるゲームを演じている。

だが、そういう骨折りのあげく、たぶん、自覚することすらないまま、自分自身で鳥籠を作り上げているのである。

だから、最初にすべきことは、その鳥籠を発見することだ。

そのためには、つねに自分自身を観察するしかないのである。

・・

自分自身を観察することによって、自分がどんな鳥籠にいるのか、発見することができる。だが、発見したら、本当にそこから出たいと思うことが必要だ。鳥籠の存在を知るだけでは不十分なのである。(111)

 

 

 

 

 

「老子」新訳

この無限の空間(名のない領域)を、仮に「玄」と呼ぶ。
玄の奥にまた玄がある。
この宇宙空間から、名のある領域に出るところに、「衆妙の門」が立っている。
それは命ある万物すべてのものが出入りする門だ。(12-13・第一章)

 

「汚い」があるから「美しい」がある(14・第二章)

 

実際、道(タオ)とは、先を考えてあくせくせず、ここでのいまを安らいで暮らすことなんだよ(19・第三章)

 

道(タオ)の力がひとにじかに働くとき、それを「玄徳」と呼ぶ。
玄徳のパワーは、体と心をひとつにする。(31・第十章)

 

私は、「無為」というが、それは何もしないことじゃあない。余計なことをはするな、手当たり次第に求めないで、淡白な味の暮らしをせよ、ということさ。(150・第63章)

 

分身トゥルパをつくって次元を超える

タロットカードで、「21」世界のカードが対応している。四つの力が取り囲む楕円の中に男女が一体化した両性具有的な存在が立っているのだが、これは四元素の領域に第五元素的なもの(楕円)が降りてくるという図式だ。(104)

 

何かを知りたいときには、ほかの人の意見など多くのデータを検証して、それが真実なのかどうかを確認しようとする。だが、これは数が多いものを選ぶという姿勢でしかなく、これは妄想を違う妄想ですり合わせているだけなので、長い期間にとんでもない思想や社会的習慣がつくられていく。

ドロレス・キャノンも、いろんな人に催眠をかけて、そこで出てきた宇宙人情報を比較して共通項を探そうとして。共通していれば、それは真実なのではないかと期待したのだ。(107)

 

獅子座9度「ガラス吹き」

獅子座は人の作ったものは気に入らない。だから、それらを粉々にして、溶かして自分の息を中心に吹きかけて美しいガラス細工を作り出すというのがこの度数だ。(132)

 

対外離脱にこだわり、その練習をする人も案外多いものだが、そもそもどうしてそれをしたいのかというと、主体が皮膚の牢獄に閉じ込められている二極化された世界から解放されたいという欲求からきているのだと思う。(139)

 

夜眠るときでもいいが、最初はもの思い、想像、考え事をしている段階で、目的とするあるイメージを思い描いてみる。これは自分の内面で思うことなので、すぐに消えやすい。が、それでもあることを継続的に思い描く。それは赤い三角形でもいい。ずっと思い描くのだ。

そのうちに、脳波がシータ波に近づき、この赤い三角形とは何の関係もない生々しい映像に切り替わる。赤い三角形と、後に出てきた映像が無関係なものだとすると、内面は外の領域とつながっておらず、あからさまにシャッターを降ろしたことになる。

しかし、内面で思い描いた赤い三角形が、今度は、くっきりと映像として見えるときには、それはエーテル領域に打ち込まれた、いや、向こう側からアクセスされたとみなされる。内と外はつながったのだ。(110)

 

これら12感覚が、第二の身体に移し替えられ、肉体がなくなっても、自分がこのまま十分に維持できるという自信があれば、いままでは肉体を持つ自分と陽神の知覚と二重に感じていたものを、片方に全部移すことができる。(111)

 

中国では、水銀を摂取すると精神に異常をきたすので、体の中の水銀を散らすために歩き回ったのが、「散歩」という言葉の語源であるといわれている。(111)

 

文字は線と線をつなぐものだが、そもそも線とは、共通したものの間を関連付けるという意味だった。(146)

 

エーテル体に接触できる文字が、いわゆる霊界文字あるいは神代文字というものなのだ。今日の日本語は、決してエーテル体に接触しない。実はヘブライ語もバビロン捕囚のときに強制的に改造されたものであり、ルーツは古くなく、神代文字とは言い難い。・・エーテル体に接触すると、宇宙のすべてにつながるかわりに、身動きがとれなくなる。霊界文字、神代文字は、アカシックレコードにも接触できるが、恣意的には扱えない。(146)

 

バビロニア時代までは創造神であり、キリスト教時代になってから悪魔になった(リリス)という点では、キリスト教は物質主義の宗教だということになる。確かに今日の物質主義は、キリスト教によって急激に加速した。

リリスは男性中心社会においては、決して捕まえられない、永遠に逃げ続ける女性であり、・・それを邪悪な存在にしたのは、まるでイソップ物語の「すっぱい葡萄」のようだ。(151)

聖魔女術

フェアリー派のウィッチクラフトでは、無意識下の精神を「新自己」、通常の意識における精神を「語る自己」と呼んでいます。この二つの自己はそれぞれ異なる知覚方法で機能しているため、相互にコミュニケーションをはかることは困難です。互いに違う言語で話そうとするようなものです。

大脳の右半球の包括的な知覚を通じて、直接世界を体験するのが「新自己」です。

「語る自己」は「新自己」の印象を構成し、これに名を与え、系統立てて分類します。その名の示す通り、これは大脳の左半球の言語的・分析的知覚を通じて機能します。(65-66)

 

魔術を修行しようとする人は、私生活において神経質なまでに誠実でなければなりません。一面においては、魔術は「言行一致」の原理の上に成り立っているといえます。

薬草を詰めた袋は治療の力を得るー私がこのように言った以上この袋は治療の力を得るのです。(239)

 

呪法には、二つの方法があります。

第一の方法は暗示を通じて行うものですが・・・
呪法は、外的世界にも影響を与えます。

物質を固定したものではなくエネルギーの渦としてとらえる世界観を理論的基礎としています。・・人間が自らのエネルギーを集中してこれを導けば、大きなエネルギーの流れを形成することができます。(240-241)

 

生態学の四原則

全てのものは他の全てのものと連繁している。

全てのものはとどまり続けていることはない。

自然は最善を知っている。

「無料のランチ」は存在しない。

(266)

 

万物は相互に連繁(れんけい)しており、すべての行為、すべての力の動きは宇宙を動かすのです。・・世界は「均衡状態」にある。魔法使いの変化させ召喚する力は世界の均衡を揺るがせ得る。(ゲド戦記からの引用)(267)

呪いの研究

神は人に罰を当てたり、報いを要求したりはしない。それは基本的に、人の一途な想いが想念体となって古代から共有されてきた精霊の意識場と同調し、蛇や山犬、その他、悪鬼、邪気などの姿を借りて相手の体に飛びかかり、食いついているだけのことである。人の邪念が、精霊と連動して相手を攻撃するのが、呪詛の基本である。なかでも一番恐ろしいのは、生きている人間の恨み、憎しみの情念が、負の意識エネルギーとなって相手の意識に干渉し、飛んでいく「生霊」なのだ。(13)

 

このように、何のために生まれてきたのか悩み、人生に絶望しても、決してしなせてくれないのである。そして、そんな経験を積むうちに、突如神がかりになったり、他人に見えないものが見えたり聞こえたりするようになる。「自分はとうとう狂ってしまったのだろうか」と思っていると、自分を導いてくれる人や、援助してくれる人が現れる。これまでの職業、家族関係、友人関係も総入れ替えとなって、見えない糸に操られるかのように偶然の出来事が重なり、最終的には霊的な仕事を選択するように「持ってこられる」のである。

・・これらの出来事はすべて「何かの意志」によって完璧なまでに計画され、アレンジされている。つまり、必然として、人生におけるすべての経験がつながっているのである。(27)

 

つまり、自分が最終目的とする状態を念じるだけで、途中のプロセス抜きで、物理的事象や生活上の出来事が実現できる性質を指す。・・

呪詛も一種の念力である。この場合も、呪う側は最終的な結果だけを一心不乱に念じ続けるのであり、相手の生活環境や身体の堅強さなどの情報がわからなくても、「想い」を飛ばし続けることで、やがて相手の身体機能の弱っていた部分から弱体化が起こって、急性の病に至ることもありうる。(37)

 

学術的にはトランスパーソナル心理学超心理学と呼ばれる分野で研究されているテーマとも深い関係がある。キーワードは変性意識状態と霊性である。これらの聞き慣れない学問分野と用語についてはおいおい語ることにして、まずは人間の情念、人間関係のドロドロした部分にスポットを当てて、身近なところから問題提起していくことにしよう。(43)

 

中国大陸ないし朝鮮半島から移住して大和朝廷を樹立した豪族の奉じる天津神と、日本列島に先住土着していた部族の奉じる国津神にまつわる神話群は、旧来の狩猟採集文化にのっとって生活してきた縄文人の末裔と、水稲稲作文化を日本にもたらした渡来系の人々の末裔との紛争を象徴したものであろう。

・・・なお、物部氏進行していた原神道の系譜は、彼らの遠祖、饒速日命(にぎはやひのみこと)授けされた十種神宝(とくさのかむたから)の祝詞にみられるように、魂を奮い起すことにより霊的エネルギーを高め、癒しのパワーを生み出す宗教だったと思られる。(48)

 

社会心理学では、ある集団のまとまり(集団凝集性)が強い場合、その集団内の社会的地位の低いメンバーを特定して攻撃することによって、強い一体感や連帯感を維持する機能が働くことが明らかにされている。(61)

 

精神的・身体的な病気が「憑き物」によって起こったのかどうかを占うのは祈祷師であるが、その占いを信じる人々がいなければ祈祷師は存在し得ないと論じている。行者、巫女、祈祷師たちに占いやお祓いを頼み、その効果を信じる人々がいるからこそ、職業として成立しているのである。

こうした信仰は、つまるところ、心の非合理的な機能、無意識の原始的衝動に根差しており、時代や社会的背景を超えて、われわれの心の奥底に綿々と受け継がれているものと思われる。(64)

 

しかし、現代のように共同体が崩壊した状況にあっても、拝み屋たちの中には先祖代々受け継いできた秘法によって、ある種の「意識エネルギー」を行使して、犬神、蛇などの憑霊を、単なる信仰のレベルを超えて自在に操る人がいる。(65)

 

真性の霊媒体質者には、「神仏の世界」からお呼びがかかる日がかならずやってくる。血がカミを呼ぶ。これが霊媒体質者の定めのようなものである。(79)

 

霊性(spirituality)とはいったい何であろうか。私は、意識の拡張に伴う、人間の非日常的な感覚や意識の現われ、つまり霊的、超常的、超個的、神秘的な体験全般を霊性と考えている。これらはいずれも、個人のレベルを超えた意識領域が自覚されるようになることを意味している。(83)

 

いずれにしても、霊性は個人と宇宙との関係を特徴づける何かであり、それは必ずしも形式や儀礼、瞑想などを必要とはしない。本人の意思や意図とは無関係に発生している面もあり、「向こうの方」から突発的にやってくる性質を持っている。それに、日常生活の中でもとても感動したり、普段の営みの中で聖なるものに遭遇するような体験も霊性の一種と考えられる。(84)

 

トランスパーソナル心理学では、いわゆる超常体験や神秘体験、宗教的体験などの非日常的な意識体験が研究の対象になっている。これらは霊性発現の指標として了解されることになる。
霊性発現(spiritual emergence)とは、心身の健康が増進されて、他者、自然、そして宇宙(cosmos)とのより深い一体感が感じられるようになり、自分の意識が変容していくプロセスである。

一般に霊的発現があまりにも急激、劇的に起こると、日常生活が困難になり、意識の変容プロセスそのものが霊的危険(spiritual emergency:SE)となる。霊的危機はいわば急性の霊性発現なのである。霊的危機の中には以下のようなものがある。

1 統一意識のエピソード(至高体験
2 クンダリニー覚醒
3 臨死体験
4 過去生記憶の想起
5 中心への回帰による心理的再生
6 シャーマンの危機
7 超感覚的知覚の覚醒(サイキック・オープニング)
8 霊的ガイドとの交信、チャネリング
9 UFOとの接近遭遇体験
10 憑依現象

以上のような状態を引き起こす原因には、大きく分けて六つのパターンがある。

1 身体的要因
2 分娩・出産
3 性愛的活動
4 深刻な喪失体験
5 薬物・心理療法
6 さまざまな霊的実践

(99-104)

 

魂の暗夜ーシャーマンの危機ー

シャーマン(sharman)とは、シベリアのツングース系部族の動詞「sa」(知ること)を語源にしている。いわば「智慧者」の意味になる。文化人類学の研究では、シベリアのシャーマンには「シャーマンの病」という精神的、生理的危機があることが知られている。これは、新しくシャーマンとして召される者が必ず通過する症候群である。

シャーマンの危機は、文化によって現れ方が異なるが、基本的に次の三つの体験が順に出てくる。

1 地下世界、死者の領域への身の毛もよだつような旅と冒険
2 天上界へ上昇していく恍惚感を伴う体験と超自然的知識の獲得
3 「現実世界」への帰還

(110-111)

 

エゴを肥大させて、煙幕を張って神仏的な意識からの「光」を遮りながら増殖する存在はある。いわゆる「魔物」の類だろうが、人間自身が発する想念の汚物(敵意、憎しみ、攻撃衝動など)、負の感情のエネルギーを栄養源にしている存在については、彼らも経験的に知っている。・・

四国の拝み屋の眷属(動物霊)の声や姿を当たり前のように認識し、交信できる。これは世界中のシャーマンの体験の中にしばしば登場するパワーアニマルである。
これは単なるイメージではなく、自我を超える意識の次元にまで認識の範囲が広がると、誰にでもその存在が感じられる。・・

眷属というと夢枕獏の「陰陽師」などを連想する人もいるようだが、陰陽道自体は明治期に壊滅的打撃を受けて途絶えてしまったので、戦後復活した土御門家(つちみかどけ)などの本流は形がい化している。しかし、陰陽道の傍流であるいざなぎ流では、式打ち(紙で作った人形を使って眷属である式神を召喚する儀式)は今でも行われている。・・目には見えない次元で、眷属(式神、式王子)を飛ばしているのである。

(119-121)

 

超心理学は、心霊現象や超能力と呼ばれる現象が人間のもつ未知の心理作用に起因することを検証する学問である。

超心理学の歴史は、1882年、ロンドンに心霊研究協会(Society of Psychical Research、SPR)という組織が創設されたときにまでさかのぼることができる。・・・

これは当時の社会背景も絡んでいる。19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけて、アメリカやヨーロッパでは心霊ブームが起きた。多くの冷媒や霊能者が登場し、盛んに交霊会が開かれ、霊媒が「死んでいる人」から発信されたとする情報を受け取ったり、自分の肉体の霊を「憑依」させて死者と交信したりしていた。(124-125)

 

ラインは、サイ研究の対象を、生きている人の超感覚的知覚(extra-sensory perception ESP)と念力(psychoknesis,PK)という二つの減少に絞った。

超感覚的知覚とは、通常の感覚的手段を媒介としない方法で、他者の心の中や事物の状態について感知する超常的な心の働きを意味する。
①透視、②テレパシー、③予知
変則的認知と呼ぶこともある。

念力は筋肉などの効果器や既知の物理エネルギーを媒介しない方法で、対象となる生物や物質の状態に変化を及ぼす超常的な心の働きを指す。
①質量の大きな物質の移動や変形(マクロ念力,macro-PK)
②量子レベルでの物理的プロセスに対する精神的影響(ミクロ念力、micro-PK)
③念写
④生物の行動や生理的プロセスに対する影響(生体念力、bio-PK)

サイ(psi)=超常的能力

(125-126)

 

ガンツフェルトの実験(133)
ヘルムート・シュミット・乱数発生装置、念力実験(138)


プリンストン大学のR・ジャンらは、乱数発生器を用いて250万回に及ぶミクロPKの実験データを蓄積した。その結果、人間の意識が乱数発生器の信号の出方に影響を及ぼすことは、ほぼ確実であることが示された。(140)

 

変性意識とは、通常の覚醒している意識の状態とは異なるすべての心理状態を指す。催眠によって引きこされたトランス状態、感覚遮断状態、酩酊状態、夢見と深い関連性があるレム睡眠状態など

 

私の印象では、これらの出来事はすべて「何かの意志」によって完璧なまでに計画され、アレンジされている。つまり、必然として、人生におけるすべての経験がつながっているのである。(27)

 

人によって経験の種類はもちろん異なるが、共通したパターンがある。彼らが極端な貧・病・争体験をもっていることである。それは、普通の人ならまず耐えきれない出来事の連続である。(26)

 

犬神(25)

 

実際、修行中は、不思議なほどお金が入ってこなくなる。他人にはそういうそぶりを見せることは決してないけれども、お金の苦労、経済的困窮も、修行のメニューのひとつであると、彼らは自覚している。ぼろをまとい、あばら屋に住んで、その日暮らしをしているのがふつうである。(23-24)

 

催眠や瞑想、自律訓練法などのトレーニングを積んだ人、感覚遮断状態にある人の脳波は、その周波数が遅くなることがわかっている。

β波(1秒間に13~14サイクル)目を開けて思考活動などをしているとき
α波(1秒間に8~13サイクル)目を閉じてリラックスしているとき
Θ波(1秒間に4~7サイクル)深い安静状態
δ波(1秒間に0.5~3サイクル)深い眠り

変性意識状態下では、α波やΘ波が優勢になってくる。この事実は、変性意識状態が覚醒水準の低下と精神活動の鎮静化をもたらす証拠といえる。要するに、変性意識状態とは、意識と無意識の境目の状態であり、半分目覚め、半分眠っているような、中間的な意識状態である。

変性意識状態においては、テレパシー、予防、念力などの超常現象も生じやすくなることが超心理学の研究で示されている。(150)

 

われわれ人間の意識状態は、注意の焦点がどの意識レベル(チャネル)に向くかによって、自覚されるものはまったく変化する。・・・トランスコミュニケーションは、当事者の意識状態(意識の水位)が深層レベル(チャネル)にまで下がってくることによって、より直接的な意識の共有が生じる可能性が示唆する概念なのである。(150)

 

意識が集団レベル、集合レベルでも作用する、ということである。個人の集まりは集団意識を持っている。
集団意識はその集団の注意・関心が共通の対象もしくは出来事に集中しているときに強められ、集団の中での
結合力を生み出す。逆に、その集団の注意が拡散すると、集団の精神的結合力もまた拡散する。(183)

祈りや祈祷も、集団規模で心が一つになったときには劇的な現象を起こす可能性がある。・・もちろん、その逆に、
大勢の人々の敵意や憎しみ、怒りや呪う想いが一つになったときには、集団や集合レベルでの悲劇、争いが勃発する
可能性も生じる。
・・ラディンは、ある集団の個人が異なる事物に注意を向けているとき、集団意識および集団の精神的結合は事実上ゼロになり、
何らかの物理的変化も生じなくなると主張している。(184-185)

ここで私が言いたいのは、自分の心の中に巣食う闇、悪感情を否定したり、抑圧することなく、これと自然に向き合い、
受け入れる姿勢をまず固めることが大事だということである。(200)

「神(その裏面としての悪魔)は自分の内側にある」という考え方は、あながち的外れもはない。まず自分の内側にどのような神仏
のイメージを抱くか、次にどのような気持ちで参拝や礼拝の場所に赴くか、これによって自分と同調する意識場も異なってくるはずである。
(203)

 

 

 

完全版タロット事典

ラテン語の「divinus」には、「神々にお伺いをたてる」という意味がある。古代の人々は、未来の出来事といった類の情報は、神聖な存在だけが知り得るものと考えていた。死すべき存在の人間たちは、神に祈願して聖なる知識を分け与えてもらう方法をいくつも編み出し、その方法が「占い」と呼ばれていたのだ。(16)

 

数の象徴体系
0 形のない純粋な可能性

1 最初の火花、意志、創造、ひらめき、はじまり、新たな命、誕生、可能性の最初の兆候

2 二重性、協調、結びつき、選択、決断、バランス、立案、二つ以上の選択肢、二つのもののペアを結びつけることによって得られる成果

3 繁殖力、共同事業の最初の結果、協力的努力、三者の結びつき、新たなものの創造、補足しあうペアを結びつけることによって得られる成果

4 構造、安定性、秩序、論理、基礎、明示、解決すべき問題、耐える力

5 不安定性、分裂、苦悶、争い、衝突、動揺、危機、下降、緊張、不確実性、粛清、不均衡

6 均衡の回復、調和、公正、公平、コミュニケーション、共有、思いやり

7 評価、熟考、再評価、出発点にたつ、強みを探す

8 動き、行動、権力、裁定、終わりの始まり

9 一桁の最後の数字、一桁のサイクルの終わり、最高点、成就、達成

10 一桁の最後より一つ大きな数字、ひとつの余分、必要以上のもの、サイクルの完全な終了、前進と再生のための準備

(66)

 
現代物理学の叡智
ヴェルナー・ハイゼンベルクがこんなことを言っていた。
「われわれが観察しているのは自然そのものではなく、われわれの質問の手法でつまびらかにされた自然である・・・われわれが知っている言語で質問を投げかけ、われわれが自由に使える手段で実施される実験を通じて答えを得ようとしている。」(111)

 

古代の七惑星
黄金の夜明け団での割り当て

太陽(生命の中心)・・14番の太陽、輝き、明晰さ、生命力、音楽、運動競技

月(感情と内面生活)・・2番の女教皇、気分、感情、母性、無意識、内面生活、周期、水(潮流)、旅

水星(コミュニケーションと機敏性)・・1番の魔術師、コミュニケーション、旅、交易、機敏性、手品、取引、執筆、窃盗、魔術

金星(愛と融和)・・4番の女帝、色香、愛、好意、和解、平和、調和

火星(衝突と争い)・・16番の塔、自己主張、衝突、争い、攻撃、力、武力衝突、支配

木星(拡大と幸運)・・10番の運命の輪、拡張、豊穣、拡大する領域、幸運

土星(収縮と苦境)・・21番の世界、義務、収縮、構造、限界、境界、障害、重荷、憂鬱

(84-85)

 

 

 

 

忙しくて余裕がない日は、豆腐にしよう

温泉卵のせ中華風豆腐

ソース

オイスターソース 小さじ2

ごま油 小さじ1

(温泉卵の作り方)

卵4個は室温に戻す。

卵の丸いほうに包丁の根元で穴をあける。(こうするときれいに皮がむける)

厚手の鍋に水4カップをいれて火にかけ、沸騰したら火から外す。

水3/4カップを加え、卵を静かに入れ、ふたをして40分ほど放置したら冷水にとってさます。
(28)

 

凍豆腐の作り方
木綿豆腐は市販パックのまま袋に入れて冷凍すれば2か月、切ってラップにくるんで冷凍した場合は2-3週間保存できます。
朝に冷蔵庫に移せば、夕方には自然解凍ずみ。
水をしぼって調理すると、高野豆腐のように煮汁がしみ込みやすくなります。(69)

 
豆腐の片栗粉まぶし煮
煮汁
だし 1カップ
醤油、みりん、酒 各大匙1

豆腐を4つにきり、片栗粉をまぶす。
煮たてた煮汁に片栗粉をまぶした豆腐をいれ、3-4分煮る
(74)

 

基本の麻婆豆腐
豆腐を茹でる
A(しょうが、にんにく、長ネギ微塵切り、豆板醤(小さじ1/2))をいためる
B(水1/2カップ、酒、しょうゆ(大さじ1)、オイスターソース(小さじ1)、黒コショウ)と豆腐を加えて煮立て、片栗粉(大さじ1)を水(カップ1)で溶いて加える。

茹でる→炒める→煮るのステップ(86)

 

きのこ入り塩麻婆豆腐
豆腐を茹でる

刻んだエノキを入れて炒める
A(しょうが、にんにく、長ネギ微塵切り、ゆずこしょう(小さじ1/2))をいためる
B(水1/2カップ、酒、しょうゆ(大さじ1)、鶏がらスープの素(小さじ1)、塩(小さじ1/3、白こしょう)と豆腐を加えて煮立て、片栗粉(大さじ1)を水(カップ1)で溶いて加える。(87)