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虹と水晶

人は、危害をうけるのではないかと想像し、その想像上の危害から自分を守ろうとする、自己防衛本能を持っている。だが、自己防衛のための努力は、結局それまで以上の苦痛をもたらす。自己と他者という、狭苦しい二元論的ビジョンに縛られることになるからである。
最も恐ろしいものを呼び出し、ふつう一番守りたいと思っているものをあからさまに供物として捧げてしまうことによって、チュウは、自我と肉体への執着という二重の束縛を、一気に切断する。

実際、チュウという名前は、「切断する」という意味を持っているのである。だが、切断してしまわねければならないのは執着であり、肉体そのものではない。人間の肉体は、悟りを得るための貴重な乗り物だと考えられているのである。(72)

 

自分自身の心の中以外に仏陀を見出すのは不可能だ。このことを知らないのは、それを外に探しに行くことだろう。だが、自分自身の内側を探し求めていく以外に、自分自身を見出すことができるだろうか。自らの本質を外側に求めるものは、たくさんの人に囲まれて演じながら、自分が誰だったか忘れてしまい、そこいらじゅうを探し回っている愚か者のようだ。(パドマサンバヴァ「完璧な覚醒をもってみることによる自己解脱の書」(83)

 

土台ないしチベット語の「シ」(gZhi)という言葉は、宇宙および個人の両方のレベルにおいて、存在の根本的土台になっているものを指している。宇宙も個人もその本質は同じだから、一方を悟れば、もう一方も悟ることになる。みずからを悟れば、宇宙の本質も悟ることになるのである。(84)

 

ひとりひとりの生き物の条件づけられたあり方が、カルマの痕跡から生じてくるのと同じように、宇宙もカルマの痕跡によって生じてくる。

たとえば、古代チベットボン教占星術によれば、現在の宇宙が創造される以前にあった空間は、すでに破壊された前回の宇宙のサイクルに存在したものから残された、潜在的なカルマの痕跡だという。(88)

 

チベット仏教では、どのレベルの教えにおいても、生き物は、身、口、意の三要素からなっていると考える。この三者の完璧な境地は、オーム、アー、フームというチベットの音節文字によって、それぞれ象徴されている。

身というのは、その生き物の物質的な次元すべてを指す。これに対して、口は、サンスクリットではプラーナ、チベット語ではルン(rlung)と呼ばれる。体に生命力を与えるエネルギーであり、その循環は呼吸と結びついている。

意は、理性的思考に基づく表層的な意識と、心の本然の両方を含む。心の本然は、理性を超えているのである。

普通の生き物は、身、口、意はひどい制約を受けている。そのため完全に二元論にとらわれ、二元的にリアリティを見ることになる。この二元論的な見方を、不純な、ないしカルマ的な顕現と呼ぶ。カルマの因、すなわち過去の行為の結果は、たえず生じ続けている。それに制約され、ついには、まるで鳥籠の中の鳥のように、自分の制限づけられた世界に閉じ込められたまま、意規定ことになるからである。(92)

 

この空性は、たとえて言えば、鏡の持つ根源的な清浄さと、透明さのようなものだ。ラマは、弟子に鏡を見せて説明する。鏡そのものは、自分にうつしだされるものを、美しいとも醜いとも判断しない。どんな像がうつっても、鏡は不変のままだし、それによって鏡の反射能力がそこなれることはない。

心の空性は、鏡と同じ性質を持ち、清浄で透明な輝きに満ちている。何がそこに生じようとも、空である心の本性は決して失われたり、そこなわれたり、あるいは曇らされたりすることはないのである。(95-96)

 

私たちは、自分の自我を相手に、ありとあらゆるゲームを演じている。

だが、そういう骨折りのあげく、たぶん、自覚することすらないまま、自分自身で鳥籠を作り上げているのである。

だから、最初にすべきことは、その鳥籠を発見することだ。

そのためには、つねに自分自身を観察するしかないのである。

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自分自身を観察することによって、自分がどんな鳥籠にいるのか、発見することができる。だが、発見したら、本当にそこから出たいと思うことが必要だ。鳥籠の存在を知るだけでは不十分なのである。(111)