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NAVERまとめをエクスポートした記事と読書の記録

サトル・ボディのユング心理学

布置とは、深く隠された動きをこの世に実現するための働きである。・・ひとつの布置が生ずると、ある元型に含まれている内容が、私自身に生起するだけでなく、私の周囲にも現れてくる。大袈裟に言えば、本書をこうして手に取った方はすべて、私ともどもある動きを実現していくべく、同じ布置の中に居合わせているのかもしれない。(14-15)

 

具体的な教えのなかには、クンダリニー・ヨーガも含まれていた。洗練されたサトル・ボディを獲得するための瞑想技術である。それこそ、教祖の著書に書いてあった修行法を読んで実践しただけでクンダリニーが覚醒したという元信徒もいる。(参考文献8:「オウムをやめた私たち」(岩波書店)(41)

 

アブラクサスは、キリスト教の異端、グノーシス派におけるもっとも重要な神である。多くの場合、頭が牡鶏またはライオン、からだは人間と同じで、脚は蛇とされており、手には鞭を持っている。この神は基本的に太陽と蛇の属性を持ち、世界の創造者にして破壊者である。一方アイオーンは、キリスト教のライバルであったミトラ教の神で、別名をデウス・レオントケファルス(ライオンの頭をした神)という。神の頭は文字通りライオンで、下半身から胸のあたりにかけては大きな蛇が巻き付いている。(102)

 

「プルシャ」・・一般には、アートマンの概念の先駆として、究極の全体性を担う象徴と考えられているが、ほかにも、いわゆる原人(アントロポス)のイメージと重なりがある。「原人」とは、その巨大な(つまり宇宙大の)からだの各部位から世界の様々なものが化成することになる始原的存在であり、原世界、原宇宙と考えればよい。

ユダヤ神秘主義カバラ)のアダム・カドモン、ペルシャ創世神話のガヨマルト(103)

 

占いは、この原理(共時性)にそってなされる行為の代表だろう。占いは本来、宇宙大の運行の状況を読み取り、もって小宇宙たる人間の進むべき方向性を知る方法である。大小二つの宇宙はひとつの全体の一部であり、したがって本質的に同一の状況にある。根っこは同じなのだ。だから、ある日の易で出た卦は、大宇宙の状況に照応して布置されているはずであり、その人の個人的な状況とも共時的な一致が生じうる。(125)

 

竹取物語の主たるモチーフは、いわゆる白鳥処女説話と考えてよい。これは別名、羽衣説話、天人女房説話などともよばれるものである。この点を念頭に置いてみていくと、展開が多少とも理解しやすくなると思う。(166)

 

天人は、天の羽衣と不死の薬を持っており、かぐや姫に穢れたところのものを食べていたから気分が悪いでしょう、といって、薬をなめさせる。(169)

 

 

竹を伐れば黄金が手に入る翁。・・錬金術が物質としての黄金のみならず、永遠のからだ(グロリファイド・ボディ)や不老不死を求める技術であったことはすでに述べておいたが、竹取の翁は、しまいには、(帝と同様に)不死の仙薬さえ手に入れてくる。かぐや姫の遺した形見の薬である。・・

竹取物語の主人公は、いうまでもなく竹取の翁とかぐや姫、いわゆる老翁と処女のペアである。この事実は、「不死」が見た目以上に重要なテーマとなっていることを暗示している。老いた者が生きながらえると、あるいは不死を獲得するためには、処女の愛が必要なのだ。老翁と処女は、そういう背景のもとで元型的に現れるペアである。このペアの存在からも、竹取物語が一種の錬金術書、すなわちサトル・ボディの生成に関する秘密を綴った物語であることが見て取れよう。(170)

 

錬金術には、「腐敗堕落したアルカヌム」という概念がある。「アルカヌム」とは、錬金術の究極目標とされている秘密の物質を意味する。未分化のものは第一質量、分化したものは賢者の石、あるいは哲学者の石と呼ぶ。・・・しかし、アルカヌムはたとえ見出されたとしても、すぐに変質して純粋さを失ってしまうのだという。それが「腐敗堕落した」といわれる所以である。この「堕落」なる言葉に罪悪のニュアンスがあることにご注目いただきたい。これを「老いた王」というイメージで表現する場合もある。

・・本来、永遠であるはずのアルカヌムにも今述べたような腐敗堕落がある。では、老王がそれからどうなるかというと、実はみずからの息子となるのだ。すなわち生命力を更新して若返るのである。(173)

 

 

錬金術では、サトル・ボディの誕生のために王と女王の聖婚が欠かせない。(挿絵「賢者の薔薇園」、「結合」」)・・

ユングはいう、象徴としてみた場合、近親相姦とは、自分自身の本質との結合、つまり個性化を表しているのだ、と。近親相姦は、古代エジプトに顕著にみられるように、王族の特権であった。ファラオが始原の神々と同一視されたがゆえの特権である。始原の神々とは、みずからより生まれ、みずからによって存在するものであるがゆえに、自分自身の本質を近親相姦的に結合している存在なのだ。錬金術における王と女王の聖婚も、このような象徴学にもとづいている。(174)

 

彼(竹取の翁)が老や不老にまつわる何らかの変容を必要としていたからであろう。ユング的には、人生後半の課題に直面したためといえる。一般に自我は、どういうわけか、あるとき突然、否応なく個性化のプロセスを生きるよう仕向けられる。個性化という仕事のはじまりは常にそういうものだ。・・そのとき自我は、時空人の浄化と再生に関りを持ち、それによって変容し救われていく。(178)

 

あの「ギルガメシュ叙事詩」のラストシーンは示唆的である。主人公である英雄王ギルガメシュは、冒険のはてに念願の不死の薬を手に入れたが、ちょっとした油断からこの薬を失ってしまう。犠牲にしてきたものが大きかっただけに、ギルガメシュの落胆は深い。しかし、考えようによっては、それでよかったとも言えるのだ。彼が不死の薬を手に入れたというよりも、不死の薬のほうが彼を手に入れ、操ろうとしていたのかもしれないのだから。(188)

 

七つの夜(ボルヘス)

最後のローマ人と呼ばれたボエティウス、執政官ボエティウスは、競馬を見ているひとりの観客を想定します。

その観客は競馬場にいて、観覧席から馬がスタートし、レースが展開する有様、馬の一頭がゴールに入る模様のすべてを連続的に見ています。しかし、ボエティウスはもうひとりの観客を想定します。そのもうひとりの観客とは、観客とレースの両方を見ている観客です。

それはもちろん神です。神にはレースのすべてが見える。永遠の一瞬において、一瞬の永遠において、馬のスタート、レースの展開、ゴールが見えるのです。何もかもが一瞬にして見え、同様にして世界の歴史全体が見えるのです。(47)


 

オデッセイアの中に、角の門と象牙の門という二つの門について語られている一節があります。象牙の門を通って人々のところへ偽りの夢がやってくるのに対し、角の門をとって真のあるいは予言的な夢がやってくるのです。(53)

 

悪夢の英語名であるthe nightmareが出てきましたが、これは「夜の雌馬」を意味します。・・・

また、私たちに役立ちそうな別の解釈があり、それは英語のnightmareという言葉をドイツ語のmarchenと関連付けようとする。メルヘンは、寓話、おとぎ話、作り話を意味します。(55)

 

(仏教において)本質的なことは、我々の運命が我々のカルマもしくはカルマンによってあらかじめ決められているということを信じることなのです。(121)

 

ガンジーは病院の建設に反対しました。・・病院や慈善事業は単に負債の返済を遅らせるだけだ、ほかの人間を助けてはならない、他の人間が苦しんでいるとすれば、彼らは苦しまなければならない。(122)

 

それ(涅槃・ニルバーナ)はむしろ島に喩えられます。嵐の真っただ中にある不動の島です。あるいは高い塔に喩えられたり、庭園に喩えられたりすることもあります。それは私たちとは無関係に、それ自体で存在しているのです。(130)

 

ペルシアの隠喩で、月は時の鏡なりというものです。「時の鏡」という言い回しには、月のはかなさと永遠性が同居している。ほとんど透明で、無に近いけれど、その寸法は永遠に変わらないという、月に備わる矛盾がそこにはあります、(136-137)

 

ラテン語では「発明する」という言葉と「発見する」という言葉は同意語です。こういったことはすべてプラトンの学説に一致していて、発明する、発見するといえば、それは思い出すことなのです。(140-141)

 

美学的事実というのは、愛や果物の味や水と同じぐらいはっきりしてて、直接的で、定義不可能です。(143)

 

私そのものが影、天にある原型の影なのです。その影の影を作ってどうなりましょう。(154)

 

あるピタゴラス学派の人間が、ピタゴラスの教えにはおそらく含まれていない学説、たとえば円環的な時間の理論を唱えたとします。そして、「そんなことは教えの中にない」と言って攻撃されたとき、彼は「マギステル・ディクシット(magister dixit・師曰く)」と答える。そうすることで彼は教えを刷新できるのです。書物は束縛するとピタゴラスは考えた、あるいは聖書の言葉を用いるならば、文字は人を殺し、例は人を生かす、と。(173)

 

十の流出はアダム・カドモーンという名の原型的人間(オンプレ・アルェティポ)が作ります。その人間は天にいて、私たちのは彼の反映なのです。

十の流出からなるその人間は、世界を一つ流出し、さらにもうひとつと、合計四つの世界を流出します。そのうちの三つ目が私たちの物質界で、四つ目はこれから述べる悪の世界です。

すべては、アダム・カドモーンのうちに含まれている。彼は人間とその小宇宙、すなわちありとあらゆるものを含んでいるのです。

・・このカバラの教説にはひとつ使い途がある。それは私たちが宇宙のことを考え、理解しようとするうえで役に立つのです。

グノーシス派が現れたのはカバラ主義者より何世紀も前ですが、彼らも類似した教説を持ち、それは不確定な神を措定しています。プレロマ(十全なるもの)と呼ばれる神から別の神が流出し、・・そしてその神から流出があり、その流出から別の流出があり、その別の流出からさらに別の流出がある。

それらの流出の各々がひとつの天となります。(流出は塔を作っているのです)

その数は365ある。というものも、ここには占星術が混入しているからです。そして最後の流出、神性がゼロに近いその流出に至るとき、私たちは、この世界を創造した、エホバという名の神と出会うことになります。(181-182)

 

ゴーレム伝説(189-190)

 

カバラギリシャ人が「apokatastasis(アポカタスシス)」と呼んだ教義を教えてくれました。その教義によれば、カインや悪魔を含め、ありとあらゆる被造物は、長い転生の果てに、かつてそれが現れ出たところの神性と、ふたたび混じり合うことになるのです。(191)

 

デミアン(ヘルマン・ヘッセ)

たとえば、チョウ類の中のある蛾に、雄より雌がずっと少ないのがある。チョウ類は動物と同じようにして繁殖する。つまり雄が雌をはらませ、雌が卵を産む。

さて君がこの蛾の雌を一匹持っているとするとー自然科学者によってたびたび実験されたことだがー夜その雌のところに雄が飛んでくる。しかも数時間もかかるところを!数時間もかかるところだよ、きみ!幾キロも離れていても雄はみんな、その辺にいるただ一匹の雌をかぎつける!その説明が試みられているが、それは困難だ。

一種の嗅覚が、あるいはなにかそんなものに違いない。より猟犬が目につかない足跡を見つけて追及することができるようなものだ。わかるかい?そうしたことなんだが、そういうことは自然界にはいっぱいある。そしてそれは誰にも説明できない。

だが、ところでね、その蛾にしても、雌が雄と同じように頻繁にいたら、鋭敏な鼻を持ちはしないだろう。そういう鼻をもっているのは、訓練したからにほかならないんだ。

動物、あるいは人間も、彼の全注意と全意思をある一定の事物に向けると、同じようになれるんだ。(84-85)

 

ここに宗教の欠陥をきわめて明らかに見うる点の一つがあるんだ。

旧約と新約の、この神全体は、なるほどりっぱなものであるけれど、それが本来あらわすべきところのもではないということが問題なのだ。その神はよいもの、気高いもの、父らしいもの、美しいもの、高いもの、多感なものでもある。ーまったくそれで結構だ。

しかし世界はほかのものからも成り立っている。そして、それはすべて無造作に悪魔のものに帰せられている。世界のこの部分全体、この半分全体が、ごまかされ、黙殺されている。彼らは神を一切の生命の父とたたえながら、生命の基である性生活というものをすべてどんなに無造作に黙殺し、あるいは悪魔の仕業だとか、罪深いことだとか説明していることだろう。・・・

だが、この人工的に引き離された、公認された半分だけでなく、全世界をいっさいをあがめ重んじるべきだ、とぼくは思うんだ。そこでつまり、神の礼拝とならんで悪魔の礼拝を行わなければならない。・・悪魔を包含している神を創造しなければならないだろう。・・この世の最も自然なことが起きるのだとすれば。(93-94)

 

放蕩者の生活は神秘主義者になる最上の準備の一つなんだ。(129)

 

できあがったのは、するどい精悍なハイタカの頭をした猛鳥だった。それは半身を暗い地球の中に入れ、その中からさながら、大きな卵から出ようとするかのように、苦心して抜け出ようとしていた。背景は青い空だった。その絵をながく見つめていればいるほど、それは夢の中にでてきた彩色の紋章であるように思われた。(134)

 

「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。」(136)

 

「われわれは古代のあの宗派や神秘的な団体の考えを、合理主義の観点から見て素朴に見えるように、それほど素朴に考えてはならない。古代は、われわれの意味での科学というものはぜんぜん知らなかった。そのかわり、非常に高く発達した哲学的神秘的心理が研究されていた。その一部から魔術と遊戯とが生じ、しばしば詐欺や犯罪になりさえした。しかし、魔術でも高貴な素性と深い思想を持っていた。さっき例にひいてアプラクサスの教えもそうであった。人々は、この名をギリシャの呪文と結び付けて呼び、今日なお野蛮な民族が持っているような魔術師の悪魔の名前だと思っているものが多い。

しかし、アプラクサスはずっと多くのものを意味しているように思われる。われわれはこの名をたとえば、神的なものと悪魔的なものとを結合する象徴的な使命を持つ、一つの神性の名と考えることができる。」(138-139)

 

きみが生まれつきコウモリに造られているとしたら、ダチョウになろうなどと思ってはいけない。きみはときどき自分を風変りだと考え、たいていの人たちと違った道を歩んでいる自分を非難する。そんなことは忘れなければいけない。火を見つめたまえ、雲を見つめたまえ。予感がやってきて、君の魂の中の声が語り始めたら、それにまかせきるがいい。(163)

 

人は自分自身の腹がきまっていない場合にかぎって不安を持つ。彼らは自分自身の立場を守る決意表明したことがないから、不安をもつのだ。自分自身の内部の未知なものに対して不安を持つ人間ばかりの団体だ!彼らはみな、自分らの生活の法則がもはや適合しないこと、自分たちの古いおきての表に従って暮らしていること、宗教も道徳も何一つ、われわれの必要とするものに適応しないことを感じている。(202)

 

来るべきものは突然現れるでしょう。そのときぼくたちは、知る必要のあることはきっと経験するでしょう。(232)

 

あれから三度新しい前兆を見た。・・これはほんの始まりだ。おそらく大戦争になるだろう・・・古いものに執着している人たちにとっては、新しいものは恐ろしいだろう。(236)

 

無意識と出会う

無意識とのやりとりを折衝と見なすということがある。

自我は無意識の力を借りたいが、主導権は手放したくない。

一方、無意識の側は、自我の協力を得て少しでも意識化され、現実のものとなりたがっている。(2)

 

イマジネーションの世界における一つの動きの影響が及ぶ範囲は、かならずしも心の中だけにとどまらない。境界を越えて、現実の世界との活発な相互作用を見せながら展開していく。つまり、不思議な偶然が身の回りでしょっちゅう起こるのである。・・いっさいは一つの壮大なネットワークをなしている。(17)

 

リビドーとは、心の持っているエネルギー、生命力である。リビドーで注ぎ込まれたものは生命を持つ。イマジナーのこの行動は、石にリビドーを注いで成長、変容させる。(26)

 

木の象徴的意味について。

楽園の中心に茂る木は、もう一本あった。生命の木である。生命樹に対する信仰は広く分布している。その背景には、極度の乾燥や寒冷に耐えて常緑を保ったり、ほとんど枯死しているかに見えて季節がくれば必ず芽吹いたりする、樹木の驚くべき生命力への畏怖があった。

有名な例はクリスマス・ツリーである。キリスト教以前、それは冬至の祭りの主役だった。冬至の祭りは、衰えきった太陽に常緑樹のような声明を取り戻させる再生の儀式である。

木はそもそも神の宿るもの、神の降りる依り代である。そのとき、木は世界の中心となる。その中心性が強調される場合は、世界樹、宇宙樹と呼ぶ。(128)

 

ここでの作業は、「凝視する」ということにつきる。ユングはその意義を次のように説明した。すなわち、ドイツ語で「見つめる」「凝視する」を意味するbwtrachtenという言葉には、一方で「孕ませる」「身ごもらせる」という意味もある。凝視することは、それだけのリビドーを対象に注ぎ込むということなのであり、リビドーが生のエネルギーである以上、じっと凝視されたものは生命を持つようになって、ついには動き出すのだ、と。(123)

 

このマテリアルにおける鳥のいみについてはどうか。イマジナーは否定的な父親を連想する。となれば、鳥は、おもに男性的な精神や侵入的な意見を意味しているに違いない。この場合、「男性的な精神」とは、その否定的な側面のことであり、具体性や実体性のない机上の空論、人間味を欠いた冷たい主義主張などを思い浮かべていただければよい。「侵入的な意見」とは、個々の相手の特性を無視した一般論の押しつけ、例外を認めない過度の厳格さなどと関係がある。

今はこれらをひとまとめにして、「父権的な意見」と呼ぶことにしよう。ユング派では、これと同じものを表すのに、「アニムスの意見」という術語も使われる。「父権的な意見」とは、要するに。「こういすべきだ」「こうしなければならない」「こうするものだ」という社会的、集合的な規範の謂いである。

それはきわめて一般的な性格を持つ規範であるため、融通が利かない。個々の状況の特異性におかまいなく、しゃくし定規に一定の価値観を押し付けてくるのだ。(65)

 

それ(アクティブイマジネーションによる予想外の方向への発展)によって、自我の狭い視野には入っていなかった何かが見えるようになる。これが重要だ。意外な方向から意外な要素がもたらされることによって、今までなら生じえなかったはずの変容が生じる。無意識というものがたしかに存在していて、全体性の実現を自我に働きかけているからである。そして、そのような可能性を圧倒的に広げてくれるのが、自我のアクティブな態度なのである。(69)

 

心には基本的に、意識、個人的無意識、集合的無意識の三層構造が存在することになる。(72)

 

元型の種類は無数にある。たとえば、母親らしい心のは動きの背後にはグレート・マザー(太母)元型の働き、思春期に特有な心の動きの背後にはプエル(永遠の少年)元型の働きがある。

また男性の意識はアニマと呼ばれる女性的な元型の影響下にあり、女性の意識はアニムスと呼ばれる男性的な元型の影響下にある。

ほかには、自我が顧みることのなかったさまざまな生き方の可能性を突きつけてくるシャドウ(影)、心全体を統べる中心として働くセルフ(自己)などが代表的なところだろう。(74)

 

心全体の広大さからいえば、意識が占める割合は非常に小さい。心のほとんどは無意識である。意識は氷山の一角に過ぎない。なにしろ、今まさに意識しているのではないことは、数十年前の事件から一分前の夢想まで、いっさいが無意識の中にしまわれているからである。

そしてまた、その無意識の中では、個人的無意識より集合的無意識のほうが圧倒的に大きい。集合的無意識というのは、太古の昔からの人類の心の全経験が蓄えられているようなものだからである。

したがって、意識、個人的無意識、集合的無意識を合わせた心全体の中心は、心のほとんどを占めている集合的無意識の中心にほぼ一致する。この中心をセルフ(自己)と呼ぶ。意識領域のみを支配している自我とは対照的に、セルフは隠れた絶対の中心として、心の動き全体に大きな影響を及ぼしている。(75)

 

自我は無意識のことなど無視して独善的にふるまおうとするのだが、十分に機能しているかに見えてじつはそうではない、ということも少なくない。

たとえば、ブランド商品でも人気映画でも大型娯楽施設でもよいが、夢中で流行や評判を追いかけているとき、人はしばしば神秘的即融と呼ばれる原始的な心理状態に陥っている。

すなわち、自我は自分と自分をとりまいている世界との区別を失って、集合的な価値観や世界観に埋没してしまうのだ。一体感を希求する孤独な自我は、そのような未分化な混沌へと退行しやすい。

 

自我が神秘的即融を断ち、集合的な価値観から適当な距離をとれるときにだけ、セルフ(のイメージ)は姿を現す。具体的なイメージや現象に身をやつして意識の世界にやってきて、はっきりと自我に経験されるのである。(82-83)

 

 

一個人の心身という境界を越えた無意識の発露もある。

周囲の人々や物を巻き込んだ、より一般的な共時的現象である。

共通の布置ののもと、複数の人や物の間に「意味のある偶然の一致」が生じるのだ。布置が周囲を巻き込んで次々に感染していく、と言ってもよい。

ユングと親交のあった中国学者リヒャルト・ヴィルヘルムが実際に経験したという、中国の雨乞い師(レインメーカー)にまつわる逸話は、このことをみごとに示している。

次のような話である。

中国のある地方でひどい旱魃があり、万策尽きた村人たちは、有名な雨乞い師を呼びにやった。しかし、雨乞い師はその村に近づくなり不快そうな表情を見せ、一刻を争う事態だというのに、人払いをして村堺の小屋に籠ってしまった。ところが、それから三日後、多量の雨のみならず、雪さえ降ったのである。

驚いたヴィルヘルムがそのわけを問うと、雨乞い師はこう答えた。

この村と村人はタオからはずれており、自分にもそれがうつってしまった。そこで小屋に籠って、まずは自分がタオに戻るようにした。雨や雪が降るのは当然のことではないか、と。

雨乞い師が言う「タオ」は、ユングの言葉では、「全体性」に相当する。・・アクティブ・イマジネーションの作業も、まさしくこれと同じだからである。籠ってイマジネーションを行うなかで行われた布置は、周囲にも感染していく。(正確には同時発生する。)

アクティブ・イマジネーションを続けていると、たしかにしばしば共時的現象を経験する。内的な個性化のプロセスは、そのようにして外的な環境の変化と並行して進む。

(87-88)

 

人間の宿命はいかにして知られていたか。古代から中世のヨーロッパにおいては、占星術がそのための主たる手段だった。誕生時の星々の位置を表すホロスコープは、その人の生涯にわたる宿命を共時的に示すとされている。・・宿命、運命というのは、どんな過酷なものであっても変えられない、いわば絶対の力だったのである。・・・

ところが、その絶対の力にも対抗できる方法が一つだけあった。ほかでもない錬金術である。

 

つまり、錬金術が目指す金属の変容は、究極的には、その金属に配当された惑星の属性を変えることを意味していた。錬金術とは、人が持って生まれた宿命を変えるという、やはり本来は不可能なはずの目的を追求する作業だったのである。

 

占星術の背景には、無意識的な内容が宇宙や天体に投影されているという事実がある。夜空というスクリーンに投影された無意識を、ほかならぬ布置(星の配置)のなかに読み取るのが占星術だが、これに対して錬金術は、諸々の金属を介して無意識に対峙し、その布置に変化をもたらそうとしたおである。(89-90)

 

布置 constellationとは、本来、「ひとまとまりの星 stellaの配置」「星座」を意味する言葉である。

一つの星座を構成する星々は同じ平面上にはない。地球からの距離が異なるのだから、今、私たちが同時に目にしているそれらの星々の輝きは、まったく別々の時刻に初声されたものである。しかし、地球上からは、その星々が同じ方向に存在するがために偶然何かのかたちに見える。つまり、空間的にも時間的にも無関係な天体同士がひとかたまりになって意味をなし、私たちの心の奥深くにオリオンだのペルセウスだのといった古い神話の数々を彷彿とさせるわけである。(85-86)

 

ユングがアクティブ・イマジネーションの臨床適応としてあげている状況は、おおむね次のようにまとめられるだろう。

・・・

③ 記憶に残る夢が足りないとき。

④ その人が説明のつかないものの影響下にある、つまり一種の呪いの下にある、と感じている場合。

・・

⑥同じ落とし穴に何度も落ちている場合。

 

③「記憶に残る夢が足りないとき」は、いずれも夢の数に関係する臨床適応である。

ユング派では夢分析を重視するが、夢の数は多すぎても少なすぎてもやりにく。そのようなときには、たいてい分析への抵抗の気持ちが隠れているので、そのことを話題にするほうが先決である。しかしながら、たしかに抵抗とは違って、無意識とうまく距離がとれないという人もいる。そのときアクティブ・イマジネーションをはじめると、夢は適当な数に落ち着いてくる。

なぜちょうどよくなるのか。

まず夢が少ない場合。睡眠の研究などを通して、夢という無意識からのメッセージは、毎晩、かならずやってきていることがわかる。ということは、そのメッセージをうまくキャッチできていないのだ。アクティブ・イマジネーションができるようになると、無意識からのメッセージを受け取るのにふさわしい構えができて、おのずと記憶に残る夢は多くなる。

反対に夢が多すぎる場合、アクティブ・イマジネーションを試みるとメッセージが正確に聞き届けられる頻度が格段に増えるので、無意識は夢という隘路に殺到しなくてもよくなるのである。

こうした現象は、夢とアクティブ・イマジネーションの間に補償的な関係があることを暗示している。おもしろいことに、補償的な関係は、夢の数についてばかり見られるのではない。じつは、内容に関しても、目を見張るほどに補償的なのである。

たとえば、アクティブ・イマジネーションを開始すると、夢は多少とも精彩を欠いたものになっていく。しかし、そのイマジネーションが暗礁に乗り上げたとき、行き詰まりの原因を明快に教えてくれるのもまた夢なのである。(106-107)

 

④「その人がせつめいのつかないものの影響下にある、つまり一種の呪いの下にある、と感じている場合。あるいは、周りから見てそのように思われる場合」である。

「一種の呪い」などというと、ひどく怪しげな感じを与えてしまうかもしれない。

しかし、実際のところ、この種の主訴で相談に来る人は少なくないし、しばしばアクティブ・イマジネーションを導入する契機にもなっている。イマジネーションが豊かかつ創造的に展開し、治療的にも一番有効に機能するのは、経験上このような人たちである。

この「一種の呪い」は、文字通りに「呪いのように」と表現されることもないではないが、一般的には、「どうして私ばかりがこんな目に合うのでしょうか」とか、「どうやってもうまくいかないんです」などという言葉で訴えられる。

当の本人にまったく非がないとまでは言えないにせよ、とくにあくどいことをしているわけではないし、事態の改善を目指してあれこれ努力を重ねている。なのにやることなすことすべてが裏目にでてしまうのだ。めぐりあわせが悪い、運が悪い、という感じに近いだろう。

これは一部で、⑥の「同じ落とし穴に何度も落ちている場合」にもつながってくる。・・しかしながら、そのようなとき、じつは布置に問題があることがある。

布置によって引き起こされるさまざまな可能性についてはすでに述べた。布置には怖ろしいところがある。しかも感染を引き起こしやすい。度重なる不幸、不運を嘆くばかりでなく、布置を意識し注目することが必要なのである。

アクティブ・イマジネーションは布置のレベルで心にアプローチする、ほぼ唯一の分析技法といってよい。

 

 

 

 

 

シッダールタ(ヘルマン・ヘッセ)

たしかに神聖な経典、とくにサーマ・ヴェーダ(沙磨吠陀)のウパニシャッド(奥義書)の中の多くの詩行が、この最も内奥のもの、究極のものについて語っていた。すばらしい詩句であった。そして人間は、睡眠中、深い眠りの中で、彼の最内奥へ入り、真我(アートマン)の中に住むのだと書かれていた。(11-12)

 

世界の一如性、場物が互いに関連をもつこと、大きなものも小さなものもすべてのものが同じ流れに包括されていること、つまり、原因、生成、死滅という同じ法則に支配されていること、これがあなたの崇高な御教えから明るく輝く出しています。・・この一切のものの一如性と一貫性が、やはり一つの点で中断されています。一つの小さな隙間からこの一如の世界の中へ、異質のものが、新しいものが、それまで存在しなかった、そして示されなかった、そして真理として証明され得ないものが流れ込んでいるのであります。・・この小さな穴によって、永遠の、一貫性をもつ世界の法則全体がふたたび破壊され、否定されています。(46)

 

私自身に私は学ぼう。私自身の弟子になろう。そして私はシッダールタという秘密をすることを学ぼう(54-55)

 

この年月のあいだ、自分でも意識しないで、あのたくさんのい人々のような、あの幼児人間になる努力をし、それにあこがれてきた。そしてそうしながら、彼の生活は、あの人たちの生活よりも、はるかにみじめで貧しかった。なぜなら、彼らの目標は、彼の目標ではなく、彼らの心配事は彼のものではなかったからである。(109)

 

「あなたも河からあの秘密を学びましたか、時間など存在しないという秘密を?」

ヴァースデーヴァの顔は晴れやかな微笑みに輝いた。・・

「あなたの言いたいのは、このことでしょう?河はいたるところで同時に存在する、水源でも、河口でも、滝でも、渡し場でも、早瀬でも、海の中でも、山の中でも、いたるところで同時に存在する。そてい河にとっては現在だけが存在するので、過去という影も、未来という影も存在しない」・・・「そして私がそのことを学んだとき、私は自分の生涯を眺めてみた。するとそれも一つの河だった。そして少年シッダールタは壮年シッダールタや老年シッダールタから単に影によって隔てられているにすぎず、現実的なものによって隔てられているおではなかった。シッダールタの前世も決して過去ではなかった。そして死と梵(ブラフマン)への回帰も決して未来ではない。何ものも過去にあったのではなく、何ものも未来にあるのではない。あらゆるものは現在にある。あらゆるものは実際に現在存在する」(140)

 

とことんまで味わいつくして、解決されなかった苦しみは、すべて戻ってきて、同じ苦しみをくりかえし味わうことになるのだ。(170)

 

完全マスター 西洋占星術Ⅱ

牡羊座=自我感覚

牡牛座=思考感覚

双子座=言語感覚

蟹座=聴覚

獅子座=熱感覚

乙女座=視覚

天秤座=触覚

蠍座=生命感覚

射手座=運動感覚

山羊座=均衡感覚

水瓶座=嗅覚

魚座=味覚

 

人間の意識を説明する法則というものがあり、それが適用されたものが、惑星の数の7やサインの12の法則であり、この法則を天文学的に見る宇宙に投影して、そこに秩序を見るということになるのです。(22)

 

神智学などを参考にすると、宇宙法則は七つの原理で成り立っています。

プリズムを参考にして考えてみると、一つの光は七つに分光します。この七つのうち一つは、またさらに七つに分かれるのです。占星術に適用してみると、宇宙の中心があり、その周囲に全太陽として七つの太陽(恒星)に分岐します。その一つが太陽系の太陽です。この太陽は、七つの惑星に分岐します。惑星の一つに七つの月があるということになります。

実際に地球の周りには月は一つしかなく、ここで神学的な7の法則は破綻します。地球はこの7という古い宇宙法則が、上においては働くが、下においては上手く機能できない場所だと考えるとよいでしょう。

 

太陽は分割された小さな自己ではなく、総合された大きな自己で、地球以外の他の惑星お要素も内包しています。そして地球は太陽を見た時に、自分の逆像をそこに見ます。これは簡単なイメージとしてはゼロのものを二つに割ったとき、プラス10とマイナス10いなるというような印象で考えてみてください。プラスが10が自分であるとする時、太陽を見ると、そこにマイナス10が投影されます。あろうことか、偏った人が透明で聖なるものを見た時、それを邪悪なものとみなすという心理構造が働きます。(32)

 

地球上で育ち、自分の肉体がもつところの感覚を通じてあらゆることを認識し、それが唯一の世界だと思い込むことで、私たちはこの小さな自己の中に幽閉されます。ジオセントリックの占星術はこの視点から宇宙を考えることです。

一方でヘリオセントリックとは、上空から降りてきたお釈迦様の視点です。(33)

 

トランスサタニアン占星術

天王星の社会的価値観の否定、あるいは信念体系の覆しというものを前提にして、そこから初めてその後の海王星冥王星がうまく働くようになります。土星と、天王星海王星冥王星のグループの間には大きな壁があるようです。古い社会構造は、土星までで完成していると考えてもよいでしょう。・・古典的な占星術では、一番外側は土星でしたから、人間の価値とか、あるいはまた生きがいを判断するには、すべて社会的な価値観の枠内でのみ考慮していたといえます。それ以外は何を探しても、どこにもないも可能性はないので、・・刑務所の中で一生を過ごすというような感じがします。(19)

 

出生図というのは、実は宇宙的な存在が死んだときの図であり、いわば墓標です。(27)

 

牡牛座の思考記憶域、タロットカードでいえば「2女教皇」の持つ書物であり、そこには世界を作り出す基本の言葉がまるで聖書のように書かれています。・・書物をアカシックレコードと考えてよいでしょう。アカシックというのは、「アカーシャ」という言葉から来ていて、これは第五元素としての空の元素です。それを四元素に分解すると、時間と空間が生まれます。・・・私たちはアカシックレコードの書物のどれかの行を選んで解凍して、特定の時空間の表現にしていき、この中を歩きます。・・これらは神話言語で記述されており、つまり極めて振動密度の高いものなので、私たちの実人生のように振動密度が低く、物質密度の高い存在状態では、この神話言語からはみ出すこともできず、しかも意識化もできず、そこに従属して、つまりシナリオに動かされているという状態になります。(136)

 

視覚は特定の対象にはっきりとフォーカスしますが、フォーカスすると今度は無意識の側はそれ以外のものをフォーカスするという二極化を起こします。

乙女座の視覚は、天王星海王星冥王星の領域に適用すると、あらゆる点で非物質的な視覚ということになりますから、何もないところに見る視覚ということになります。あるいは見えるものの裏側に押しやられたものを見るということです。

視覚は思考の反映として、見たものすべてに考え方を押しつけています。

視覚は思考の反映であるということは、唯物論的な思考であれば、空気の中にいろいろなものが見えるということを拒否します。・・見える見えないは思想の問題なのです。

 

天王星海王星冥王星の三つの天体で、この触覚の天秤座を扱うと、非物質の面で触覚を確認してほしいという話になります・・実は多くの人はこの非物質的触覚も休みなく体験しています。

 

蠍座の蠍とは地に落ちた鷲ですが、もともとの鷲の場所に回帰するためには生命感覚の高まりが必要です。生命感覚を強めるのに最も簡単な方法は、複数の人を集めて、支配的な立場に立つことでしょう。権力とはこの強い生命感覚をもたらすのですが、これは蠍座の15度の手法で、だれもが使う手法でもありません。(162)

 

 

12サインのプロセスでは、最後のサインとは魚座です。
支配星は海王星であり、これはアストラル体の反映物ですから、水のサインはアストラル体の形成に関係するとみて、水瓶座山羊座から引き剥がすという処理は、アストラル体の段階で止まります。
山羊座を事物の世界でみなすと、事物から象徴を切り離し、この象徴そのものが独立的な生命となるのが魚座の段階です。
象徴は事物の付属品ではなく、象徴は事物よりも優位にあり、むしろ事物がそれに苔のように張りついていたのです。
(228ページ。魚座リリス

 

そもそも海王星は全く実用的でもなく、物質的でもないので、射手座海王星の熱意や試みは、実用主義的な人からすると、何の意味もない役立たないことに見えます。

地球社会では物質主義的でないものはすべて攻撃対象になりますから、空中楼閣的なことをしている息子を、両親は厳しく非難するかもしれません。

しかし宇宙的な意味ではこのことも正当性が高いので、この役に立たないことをすることにプライドを持つのがよいのです。人間は道具主義的な存在ではないし、独立した存在であり、独立するということは、何かの役に立つという依存性を発揮しないということなのです。役に立つ人とは依存的であり、自分の存在証明を他者に委ねているのです。必要とされること、貢献すること、そこに意義を感じるのは、しばしば間違っていることもあるのです。それを踏まえたうえで、どこまでも果てしなく上昇し、純化され、透明になっていく意識を探求していくとよいと思います。

(射手座の海王星、328ページ)

 

アーリマンとは物質化方向に向かう性質を持つロゴスです。つまり、それは、創造的精神という意味です。こう聞くと疑問に感じる人も多いと思いますが、創造とは多数のものを作ることで、それは一つのものをたくさんに割り、その結果、個々のものは振動密度が落ちることで、物質密度が高まるのです。

人間でいえば、互いの意思疎通ができなくなり、主観に閉じこもり、他者を警戒するようになります。

 

アーリマンが支配する世界とは、世界は想念によって作られたのではないと考えることに特徴があります。あらゆるものの根底には意思があると考えると、これは、すべて想念が作り出したものとみなしてよいでしょう。しかし想念には何もない、世界はそれとは別個に動く「冷たい時計」だと考えるのがアーリマン世界の特徴です。

 

司馬遷は神話と史実を切り離せといいましたが、別の言い方をすると。象徴と事物が別個なのが今の地球です。これは事物とは想念に従わないということです。意図や想念には追従しない事物であふれている地球で、意図や想念に従属しない物質に寄せて考えると人間という生き物も、偶然の産物であり、そこに意図は存在しません。これがアーリマンの世界の特徴です。

(33~34ページ)