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無意識と出会う

無意識とのやりとりを折衝と見なすということがある。

自我は無意識の力を借りたいが、主導権は手放したくない。

一方、無意識の側は、自我の協力を得て少しでも意識化され、現実のものとなりたがっている。(2)

 

イマジネーションの世界における一つの動きの影響が及ぶ範囲は、かならずしも心の中だけにとどまらない。境界を越えて、現実の世界との活発な相互作用を見せながら展開していく。つまり、不思議な偶然が身の回りでしょっちゅう起こるのである。・・いっさいは一つの壮大なネットワークをなしている。(17)

 

リビドーとは、心の持っているエネルギー、生命力である。リビドーで注ぎ込まれたものは生命を持つ。イマジナーのこの行動は、石にリビドーを注いで成長、変容させる。(26)

 

木の象徴的意味について。

楽園の中心に茂る木は、もう一本あった。生命の木である。生命樹に対する信仰は広く分布している。その背景には、極度の乾燥や寒冷に耐えて常緑を保ったり、ほとんど枯死しているかに見えて季節がくれば必ず芽吹いたりする、樹木の驚くべき生命力への畏怖があった。

有名な例はクリスマス・ツリーである。キリスト教以前、それは冬至の祭りの主役だった。冬至の祭りは、衰えきった太陽に常緑樹のような声明を取り戻させる再生の儀式である。

木はそもそも神の宿るもの、神の降りる依り代である。そのとき、木は世界の中心となる。その中心性が強調される場合は、世界樹、宇宙樹と呼ぶ。(128)

 

ここでの作業は、「凝視する」ということにつきる。ユングはその意義を次のように説明した。すなわち、ドイツ語で「見つめる」「凝視する」を意味するbwtrachtenという言葉には、一方で「孕ませる」「身ごもらせる」という意味もある。凝視することは、それだけのリビドーを対象に注ぎ込むということなのであり、リビドーが生のエネルギーである以上、じっと凝視されたものは生命を持つようになって、ついには動き出すのだ、と。(123)

 

このマテリアルにおける鳥のいみについてはどうか。イマジナーは否定的な父親を連想する。となれば、鳥は、おもに男性的な精神や侵入的な意見を意味しているに違いない。この場合、「男性的な精神」とは、その否定的な側面のことであり、具体性や実体性のない机上の空論、人間味を欠いた冷たい主義主張などを思い浮かべていただければよい。「侵入的な意見」とは、個々の相手の特性を無視した一般論の押しつけ、例外を認めない過度の厳格さなどと関係がある。

今はこれらをひとまとめにして、「父権的な意見」と呼ぶことにしよう。ユング派では、これと同じものを表すのに、「アニムスの意見」という術語も使われる。「父権的な意見」とは、要するに。「こういすべきだ」「こうしなければならない」「こうするものだ」という社会的、集合的な規範の謂いである。

それはきわめて一般的な性格を持つ規範であるため、融通が利かない。個々の状況の特異性におかまいなく、しゃくし定規に一定の価値観を押し付けてくるのだ。(65)

 

それ(アクティブイマジネーションによる予想外の方向への発展)によって、自我の狭い視野には入っていなかった何かが見えるようになる。これが重要だ。意外な方向から意外な要素がもたらされることによって、今までなら生じえなかったはずの変容が生じる。無意識というものがたしかに存在していて、全体性の実現を自我に働きかけているからである。そして、そのような可能性を圧倒的に広げてくれるのが、自我のアクティブな態度なのである。(69)

 

心には基本的に、意識、個人的無意識、集合的無意識の三層構造が存在することになる。(72)

 

元型の種類は無数にある。たとえば、母親らしい心のは動きの背後にはグレート・マザー(太母)元型の働き、思春期に特有な心の動きの背後にはプエル(永遠の少年)元型の働きがある。

また男性の意識はアニマと呼ばれる女性的な元型の影響下にあり、女性の意識はアニムスと呼ばれる男性的な元型の影響下にある。

ほかには、自我が顧みることのなかったさまざまな生き方の可能性を突きつけてくるシャドウ(影)、心全体を統べる中心として働くセルフ(自己)などが代表的なところだろう。(74)

 

心全体の広大さからいえば、意識が占める割合は非常に小さい。心のほとんどは無意識である。意識は氷山の一角に過ぎない。なにしろ、今まさに意識しているのではないことは、数十年前の事件から一分前の夢想まで、いっさいが無意識の中にしまわれているからである。

そしてまた、その無意識の中では、個人的無意識より集合的無意識のほうが圧倒的に大きい。集合的無意識というのは、太古の昔からの人類の心の全経験が蓄えられているようなものだからである。

したがって、意識、個人的無意識、集合的無意識を合わせた心全体の中心は、心のほとんどを占めている集合的無意識の中心にほぼ一致する。この中心をセルフ(自己)と呼ぶ。意識領域のみを支配している自我とは対照的に、セルフは隠れた絶対の中心として、心の動き全体に大きな影響を及ぼしている。(75)

 

自我は無意識のことなど無視して独善的にふるまおうとするのだが、十分に機能しているかに見えてじつはそうではない、ということも少なくない。

たとえば、ブランド商品でも人気映画でも大型娯楽施設でもよいが、夢中で流行や評判を追いかけているとき、人はしばしば神秘的即融と呼ばれる原始的な心理状態に陥っている。

すなわち、自我は自分と自分をとりまいている世界との区別を失って、集合的な価値観や世界観に埋没してしまうのだ。一体感を希求する孤独な自我は、そのような未分化な混沌へと退行しやすい。

 

自我が神秘的即融を断ち、集合的な価値観から適当な距離をとれるときにだけ、セルフ(のイメージ)は姿を現す。具体的なイメージや現象に身をやつして意識の世界にやってきて、はっきりと自我に経験されるのである。(82-83)

 

 

一個人の心身という境界を越えた無意識の発露もある。

周囲の人々や物を巻き込んだ、より一般的な共時的現象である。

共通の布置ののもと、複数の人や物の間に「意味のある偶然の一致」が生じるのだ。布置が周囲を巻き込んで次々に感染していく、と言ってもよい。

ユングと親交のあった中国学者リヒャルト・ヴィルヘルムが実際に経験したという、中国の雨乞い師(レインメーカー)にまつわる逸話は、このことをみごとに示している。

次のような話である。

中国のある地方でひどい旱魃があり、万策尽きた村人たちは、有名な雨乞い師を呼びにやった。しかし、雨乞い師はその村に近づくなり不快そうな表情を見せ、一刻を争う事態だというのに、人払いをして村堺の小屋に籠ってしまった。ところが、それから三日後、多量の雨のみならず、雪さえ降ったのである。

驚いたヴィルヘルムがそのわけを問うと、雨乞い師はこう答えた。

この村と村人はタオからはずれており、自分にもそれがうつってしまった。そこで小屋に籠って、まずは自分がタオに戻るようにした。雨や雪が降るのは当然のことではないか、と。

雨乞い師が言う「タオ」は、ユングの言葉では、「全体性」に相当する。・・アクティブ・イマジネーションの作業も、まさしくこれと同じだからである。籠ってイマジネーションを行うなかで行われた布置は、周囲にも感染していく。(正確には同時発生する。)

アクティブ・イマジネーションを続けていると、たしかにしばしば共時的現象を経験する。内的な個性化のプロセスは、そのようにして外的な環境の変化と並行して進む。

(87-88)

 

人間の宿命はいかにして知られていたか。古代から中世のヨーロッパにおいては、占星術がそのための主たる手段だった。誕生時の星々の位置を表すホロスコープは、その人の生涯にわたる宿命を共時的に示すとされている。・・宿命、運命というのは、どんな過酷なものであっても変えられない、いわば絶対の力だったのである。・・・

ところが、その絶対の力にも対抗できる方法が一つだけあった。ほかでもない錬金術である。

 

つまり、錬金術が目指す金属の変容は、究極的には、その金属に配当された惑星の属性を変えることを意味していた。錬金術とは、人が持って生まれた宿命を変えるという、やはり本来は不可能なはずの目的を追求する作業だったのである。

 

占星術の背景には、無意識的な内容が宇宙や天体に投影されているという事実がある。夜空というスクリーンに投影された無意識を、ほかならぬ布置(星の配置)のなかに読み取るのが占星術だが、これに対して錬金術は、諸々の金属を介して無意識に対峙し、その布置に変化をもたらそうとしたおである。(89-90)

 

布置 constellationとは、本来、「ひとまとまりの星 stellaの配置」「星座」を意味する言葉である。

一つの星座を構成する星々は同じ平面上にはない。地球からの距離が異なるのだから、今、私たちが同時に目にしているそれらの星々の輝きは、まったく別々の時刻に初声されたものである。しかし、地球上からは、その星々が同じ方向に存在するがために偶然何かのかたちに見える。つまり、空間的にも時間的にも無関係な天体同士がひとかたまりになって意味をなし、私たちの心の奥深くにオリオンだのペルセウスだのといった古い神話の数々を彷彿とさせるわけである。(85-86)

 

ユングがアクティブ・イマジネーションの臨床適応としてあげている状況は、おおむね次のようにまとめられるだろう。

・・・

③ 記憶に残る夢が足りないとき。

④ その人が説明のつかないものの影響下にある、つまり一種の呪いの下にある、と感じている場合。

・・

⑥同じ落とし穴に何度も落ちている場合。

 

③「記憶に残る夢が足りないとき」は、いずれも夢の数に関係する臨床適応である。

ユング派では夢分析を重視するが、夢の数は多すぎても少なすぎてもやりにく。そのようなときには、たいてい分析への抵抗の気持ちが隠れているので、そのことを話題にするほうが先決である。しかしながら、たしかに抵抗とは違って、無意識とうまく距離がとれないという人もいる。そのときアクティブ・イマジネーションをはじめると、夢は適当な数に落ち着いてくる。

なぜちょうどよくなるのか。

まず夢が少ない場合。睡眠の研究などを通して、夢という無意識からのメッセージは、毎晩、かならずやってきていることがわかる。ということは、そのメッセージをうまくキャッチできていないのだ。アクティブ・イマジネーションができるようになると、無意識からのメッセージを受け取るのにふさわしい構えができて、おのずと記憶に残る夢は多くなる。

反対に夢が多すぎる場合、アクティブ・イマジネーションを試みるとメッセージが正確に聞き届けられる頻度が格段に増えるので、無意識は夢という隘路に殺到しなくてもよくなるのである。

こうした現象は、夢とアクティブ・イマジネーションの間に補償的な関係があることを暗示している。おもしろいことに、補償的な関係は、夢の数についてばかり見られるのではない。じつは、内容に関しても、目を見張るほどに補償的なのである。

たとえば、アクティブ・イマジネーションを開始すると、夢は多少とも精彩を欠いたものになっていく。しかし、そのイマジネーションが暗礁に乗り上げたとき、行き詰まりの原因を明快に教えてくれるのもまた夢なのである。(106-107)

 

④「その人がせつめいのつかないものの影響下にある、つまり一種の呪いの下にある、と感じている場合。あるいは、周りから見てそのように思われる場合」である。

「一種の呪い」などというと、ひどく怪しげな感じを与えてしまうかもしれない。

しかし、実際のところ、この種の主訴で相談に来る人は少なくないし、しばしばアクティブ・イマジネーションを導入する契機にもなっている。イマジネーションが豊かかつ創造的に展開し、治療的にも一番有効に機能するのは、経験上このような人たちである。

この「一種の呪い」は、文字通りに「呪いのように」と表現されることもないではないが、一般的には、「どうして私ばかりがこんな目に合うのでしょうか」とか、「どうやってもうまくいかないんです」などという言葉で訴えられる。

当の本人にまったく非がないとまでは言えないにせよ、とくにあくどいことをしているわけではないし、事態の改善を目指してあれこれ努力を重ねている。なのにやることなすことすべてが裏目にでてしまうのだ。めぐりあわせが悪い、運が悪い、という感じに近いだろう。

これは一部で、⑥の「同じ落とし穴に何度も落ちている場合」にもつながってくる。・・しかしながら、そのようなとき、じつは布置に問題があることがある。

布置によって引き起こされるさまざまな可能性についてはすでに述べた。布置には怖ろしいところがある。しかも感染を引き起こしやすい。度重なる不幸、不運を嘆くばかりでなく、布置を意識し注目することが必要なのである。

アクティブ・イマジネーションは布置のレベルで心にアプローチする、ほぼ唯一の分析技法といってよい。