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ユング心理学へのいざない -内なる世界への旅‐

「私の一生は、無意識の自己実現の物語である。無意識の中にあるものはすべて、外界へ向かって現れることを欲しており、人格もまた、その無意識的状況から発達し、自らを全体として体験することを望んでいる」ユングは彼の自伝の冒頭に記しています。無意識の中にある自己という存在が、それ自体の意志で、無意識的な暗さを嫌って、意識の光の中にあらわれたがっているというように解釈できる言葉だと思います。

(97)

 

それ(マンダラ)はユングにとって、全体としての自分の表現でした。そして、人間の一生は、その全体としての自分を少しずつ実現していくことであり、また、その中心にある自己も、機会あるごとに、人間の意識の上に姿をあらわそうとしているものと考えました。・・・しかし、心理的な危機を体験した人は、その悩みが解決する時に、しばしば、この全体的な一体感を感じます。そして自分の意識を超えた超越的ななにものかの力がそこに働いていることを知ります。

その力を神とよぶ人もあり、仏という人もあるでしょう。しかし、ユングは、それこそ自分の中に無意識のまま潜んでいる心の全体像のはたらきであり、神や仏と呼ばれるものの恵みを運ぶものであろうと考えました。(99)

 

 

 

 

空海に学ぶ仏教入門

三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は、盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれ生まれて、生の始めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わりに冥らし。(34)

 

仏教が考える苦しみの原因は、我執、すなわち実体視にあります。私たちの心に、欲しいもの/嫌なものはありありと映っており、私たちはそれを手に入れ/排除しようとします。しかしそれらは心にありありと映ってはいますが、それを欲しいもの/嫌なものと捉えているのは私たちです。(35)

 

凡夫酔狂して、吾が非を悟らず。但し婬食を念うこと、彼の羝羊のごとし。(52)

 

1 異生羝羊心(いしょうていようしん)

欲望のままにふるまい悪をなす心

 

2 愚童持斎心(ぐどうじさいしん)

世俗の善悪を守る段階

 

3 嬰童無怖心(ようどうむいしん)

実体視を前提とした、病気でいえば症状を和らげる段階

 

「異生」「愚童」「嬰童」・・仏教でいう凡夫の別称

 

4 唯蘊無我心(ゆいしきむがしん)

病気でいえば根治を目指す段階

 

5 抜業因種心(ばつごういんしゅしん)

十二支縁起を観想することによって、無明を断ち切り、独覚仏を目指す

 

6 他縁大乗心(たえんだいじょうしん)

実体のように映っている対象はすべて心の中の現れで、心のみが真実であると理解する唯識の心。

瞑想中に空を体験すると、瞑想後、自他を区別する心が消え・・・一切衆生を苦しみから解放する仏陀の境地を目指す

 

7 覚心不生心(かくしんふしょうしん)

苦しみの原因は実体視ですから、苦しみからの解放とは、それまでの間違った捉え方がなくなることで、輪廻の外に目指す解放の境地が本当にあるわけではありません。

それを理解したのが煩悩即菩薩「色即是空、空即是色」の境地です。

 

8 一道無為心(いちどうむいしん)

空を体験した聖者である菩薩の境地

 

9 極無自性心(ごくむじしょうしん)

仏陀が出現したことを聞きつけた菩薩たちがさまざまな世界から集まり、その中の一人の菩薩が仏力をうけて仏陀に代わって教えを説く。

 

10 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)

密教は言葉を超えた境地を直接、師から弟子へと伝える。灌頂

(41~44)

 

大乗仏教の説く空とは、この有ると無いの両極端を離れたものだ、というのが伝統的な説明です。(81)

 

本当の空はあるでもなく、無いでもなく、分別と無分別を超越している。どうして空を分別できよう。諸法の空を知るのでなければ、涅槃を知ることはできない。それゆえ、空を理解して、断・常の二見を離れるべきである。(「大日経」住心品)(86)

 

第三住心で福徳を積むことや瞑想の三昧による天界の安泰が輪廻の外ではないとされたのは、それが原因によって作られたもので、原因が尽きれば失われる、一時的で有限なものでしかないからです。

それは仏教の教えにも適用されるはずで、もし解脱やさとりが目指され、得られるものだとしたら、それは天界の安楽と同様に、一時的で有限なものになってしまうはずです。(131)

 

 

 

魔女の宅急便

その3

見るものには不思議がある(108)

おすそわけって、見えないものを見ることなのよ(186)

千の足が進んでくる。忍び足で。抜き足、差し足。こっちのほうに。アメーバのように。終わりの扉(192)

とびらの「ら」の字のおわりが、ずずーっと伸びて、表紙の周りを一周すると、おの字につながっています。(106)

おびえをお待ち。たくさんお待ち。そしたらおまえさん、ほんとの自分の姿が見えてくるよ。(193)

すべてより、ひとつが宝(308)

 

その6

物事のむこうにはね、見えるものとおなじくらい、見えないものが隠れているのよ(60)

あんなに世話してやったのに、このいばりようだよ(83)

冒険は大事だ、忘れないようにね(93)

だが他にもちゃんと自分でつけた名前ももっている。知らないだけでね。普段は隠れていて、あるときふっとあらわれる。人に影があるようにね。(145)

男の子はポケットにライオンを飼ってる。あーなぞだ、なぞだ。女の子はポケットに蜂を飼ってる。あーチクリ、チクリ。(200)

 

 

 

 

 

千一夜物語9巻、10巻

千夜一夜物語 10巻

だが、「見えざるもの」に対して、その腕はいかにして守ってくれるかな、わけてもその「見えざるもののともがら」が幾千も幾千もいる場合には(30)

 

お前は黒い大きな石を見るであろうし、そして声を聴くであろうが、それは急流の声でもなければ、深淵を渡る風の音でもない。それこそ「見えざるもののともがら」の声であろう。それらの声は人間どもの地を凍らす言葉をお前にわめきたてるであろうが、それに耳を傾けてはならぬ。(31)

 

しかもこの出来事が続いたのは、王が頭を泉水に沈めてまた引き上げるまでの間だけだったのでした。(402)

 

 

千夜一夜物語 9巻

マスルールばかりが嘘つきではないわい!余もまた嘘つきであれば、乳母もまた嘘つきであり、そなたとて、また嘘つきであるぞ(96)

 

彼らの妖術と呪われた知識との威力にもかかわらず、彼らはこの上なく簡単な行いの結果を予想することが全くできず、一般の人々が見抜くような危険にあらかじめ備えることを決して考えません。(391)

 

運命に書き記された不幸によりアラジンは出発前に、いつもランプを隠しておく螺旋の箪笥のなかに、これをしまうのをつい忘れて、床几の上に置き放しにしていたのです(494)

 

 

 

 

占いとユング心理学

無意識の中心にはセルフ(自己)というようなものがあって、セルフは自分を超えた超越的なものだというのです。セルフは例えるなら、神様の目のようなものです。(19)

 

自分では、自分が実在していると思い込んでいるけれど、実際は映画のスクリーンに投影された影のような存在でしかないのではないか。そして本当に存在しているのはむしろUFOのほうではないかと感じたわけです。・・・外のいわゆる現実は自分の心の世界の単なる影であって、本当の現実は心の中の世界かもしれないということになります。(21-22)

 

占う人はまったく無心になっていることが大切なのです。無心になっていることで、外的世界と内的世界の一致が生じるのです。「こう出てほしい」と願っていては、そこにシンクロニティーが生じないのです。(24)

 

自分が「こう決意すれば、現実がこう変わる」などということは、今まで説明してきたことでわかるように、シンクロニティーの理論では不可能なのです。(28)

 

私たちの世界というのは、一つには自分の外に現象の世界があり、もう一つには自分の心の中の世界があります。外の世界の出来事によて、私たちの心も左右されます。また逆に心の世界によって外の世界も変わってきます。(43)

 

マンダ教(80)

 

グノーシス主義の考えでは、人間は三種類に分けられます

肉体だけしか持たない「肉体人間」サルキコイ

心はあるけど星の影響に苦しむ「心魂人間」プシューキコイ

神性をもった「霊的人間」オウネウマティコイ

 

乱暴な言い方をすると、グノーシス主義では、人間は宇宙から堕ちてきた堕天使であって、本来居るべき場所ではない、この世に生きていることを嘆き、なんとか自分が本来いた充たされた場である故郷のプレローマ(ラテン語で充満する)に戻ろうとしているのです(84)

 

下三本が自分の内的な世界 上三本が外の世界、現実との対処の仕方 心の中で無意識に働く情緒の世界と外の現象の世界が組み合わさって、人の運命が決定されるのが卦なのです。

 

 

 

ユングとオカルト

ヘルマン・ヘッセデミアン

「鳥は卵から無理に出ようとする。卵は世界だ。生まれようとするものは、ひとつの世界を破棄せねばならない。鳥は神のもとに飛んでいく。その神は、名をアブラクサスという。」

 

自らの尾をかむ蛇であるウロボロスであらわされる「第一質料」(プリママテリア)は、すでにプラトンの「ティマイオス」に述べられている概念で、あらゆる物体に共通で、しかもあらゆる形をとることができるものであるり、種子、混沌、宇宙の実質、絶対などの意味をもつ。

 

「曖昧なることを説明するのに一層曖昧になることを以て、未知なるものを説明するのに一層未知なるものを以て」

 

転移による密着した関係

 

「下なるものは、上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし」または「万物の一者より来たり存するがごとく・・・」「太陽のその父にして、月のその母」

 

「賢者の石」すなわちメリクリウスは「宇宙の魂」(アニマ・ムンディー)として、グノーシス主義の「光の乙女」のような女性の姿をとることもある。

 

我々はルネサンスが明るく、人間を中心にした合理的で自由な時代であったと思いがちだが、事実はルネサンスこそ魔術的でオカルト的な時代であった。

 

一人の人間の一生のあらゆる出来事は異なった二つの種類の結合によって成立している。第一は、自然過程の客観的、因果的な結合であり、第二は主観的で、これはものごとを体験する個人との関係の中でのみ存在する。この体験は客観的に証明することができない。

しかし、それはものごとに大きな意味を与える点ででは、その人によっては厳然と存在している。

 

これを認めるとすれば、人間の頭の中で想像できる唯一のことは、自然の中には原因と結果との結合性以外に、もう一つの別の因子が存在し、それが諸現象の中に表現され、それが我々によって意味としてあらわれるものと考えなければならない。これがユングの考えていた隠れたる神の存在であり、すべてを包括する因子の存在という過程であった。

 

老子によれば、それはまた無でもあるが、この無というのは、なにもないということでなく、感覚の世界ではとらえきれず、またあらゆることもない一種の「意味」であり、無はこの世界を構成する組織者でもある。

 

見えざる神、隠された統一者、無、恍惚、あるいは仏教の空は実在する。それは人間の意識や自我とはまったくかかわらないために、無であり、隠されたものであらねばならない。しかし、そこにこそ新しい世紀と新しい意識の誕生が存在する。それを信じると信ぜざるとにかかわらず・・・

 

 

 

スーフィー イスラムの神秘階梯

啓示された形体へ降下する「絶対者」と出会うために、宇宙は万物の内部で垂直な軸を昇るという激しい運動状態にある。この運動は確固たるパターンにしたがって、規則的かつ継続的に起こるので、われわれはその運動に気づかず、宇宙は静止しているように見える。

この「つねに新たなる」創造を知ることができるのは、「自己」(セルフ)を意識している人間だけである。

自らの意思に反して、この世界に落ちた魂は、自分を異邦人であり、光の世界からの亡命者とみなす。魂は、枷と鎖が耐え難く感じられるほど、自らを高めなければならない。・・・意識の瞬間とは、魂が亡命に気づき、生が幻影であると知り、「一者」の光と一体であった「端初」に戻りたいと希求する瞬間である。

第一にわれわれは非存在であり、実際には神のみが存在する。

第二にすべての人がわれわれに何かを教えることができる。

 

象徴学

われわれは象徴を通して覚醒し、変容し、表現する。・・・神への旅の全体は象徴の中への旅である。

象徴とは神的リアリティーの運動手段である。

 

象徴世界(アーラム、アルミサール)と呼ばれるこの高次の存在の状態は、知性的なアーケタイプの世界と感覚的な現象界との出会いの場である。象徴世界は、アーケタイプの世界の反映である。

象徴世界は、アーケタイプの世界の普遍的諸本質を収束し、それらをこの感覚的、現象的世界へと反射させる。

 

すべての被造物は象徴である。なぜならば、外的感覚によって知覚(パーシーブ)されたものはすべて内的感覚によって高次のリアリティーのサインとして認知(コンシーブ)されるからである。

 

神への旅

①神への旅のはじまりは、物質界が神的なものを隠すベールであるという考えに目覚めることである。

儀式の形而上学的な属性は、象徴学の知識なしに行われた場合、隠れたままであり、不活性である。

 

粘土(知られてるもの)からものをつくっている職人(知る者)を見る人は、職人の手の中にある粘土が単に受け身であり、何も動作をもたないという表面的な観察を行うかもしれない。つまり、実際には粘土が積極的に自分の側から職人の動作を決定しているという事実を見逃している。

確かに職人はざまざまなものを作り出すことができる。しかし、何をつくるにしても、粘土そのものの本性によって制限された限界を超えることはできない。言い換えれば、粘土の本性自体によって、現実態となることが可能な形体というものが決定されるのである。(240)

 

宇宙は一性の中の多様性と表現される「存在一性」の概念と、多様性の中にある一性と表現される普遍的なプロトタイプとのあいだにある。

 

スーフィーの用語では、宇宙はしばしば絶対存在の影と呼ばれる。すなわち、宇宙とは、アーケタイプの感覚的限定であるがゆえに、相対的存在をもっているのである。

影と影をなげかけるものとの関係は、フェノメノン(感覚)とヌーメノン(知性)の関係に似ている。

影が存在するためには、影をなげかけるもの、影からおちる場所、それに影をつくる光の三者が必要である。

 

スーフィーの用語では、影をなげかけるものとは、「自己」(セルフ)の相対的様相における絶対者である。また、影が落ちる場所とは、アーケタイプの世界、すなわち可能的事物の諸本質の場所である。影をつくる光とは、絶対者の自己顕現である、この光はアーケタイプの世界に輝き、下層にある象徴世界の上に影を投げかけ、最後には現象世界に到達する。

 

反射鏡

創造の第二概念は鏡である。

宇宙は神名という形相での「自己」(セルフ)の顕現の場所として創造された。

この宇宙という鏡を磨くための人間が創造された。

スーフィーは神がもうひとつの形相の中に自己の像をもつための道具となる。

スーフィーは個我を無にしたとき、神に向かって神を反射させる能力をもつ。

慈愛の息吹・・・

宇宙は瞬間ごとに再創造されている。