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【戦前のオカルト研究・千里眼事件】福来友吉 東京帝国大学助教授と千里眼

映画の貞子にも登場する念写実験の話です。


高橋貞子での実験成功に力を得て、1914年(大正3年)9月に『透視と念写』を出版した。学長であった上田萬年から10月に呼ばれ「東大教授として、内容的に好ましくない行為」として警告を受けたが、透視も念写も事実である旨主張して東京帝国大学を追放(公的には休職)され、1915年(大正4年)10月28日付の東京日日新聞や萬朝報でも報じられた[7]。彼が取り上げた人物も「イカサマ」「ペテン師」などの攻撃を受けることになってしまった。
出典 福来友吉 - Wikipedia


福来友吉 - Wikipedia


福来心理学研究所


飛騨福来心理学研究所


透視 (超心理学) - Wikipedia


① 御船千鶴子嬢の透視


清原氏は彼女に催眠術を施し、そして同船に第六師団(熊本師団)の兵士が乗り込んで居るや否やを透視することを要求した。其時、彼女の答へは次の如くであった。
 第六師団の兵士は一旦長崎を出発したけれど、途中故障ありて引き返し、常陸丸には乗り込んで居ない。上の実験ありて後三日目に、第六師団の出征兵士から熊本の家族へ通信があった。それによると、上の透視が全く事実と符合して居るのであった。
出典 mifunec


公開実験でのすり替えを疑われる


1910年(明治43年)9月15日、物理学の権威で東京帝国大学の元総長の山川健次郎が立ち会いのもと、透視実験を行った[1]。千鶴子は鉛管の中の文字の透視を「成功」させたものの、それは山川の用意したものではなく、福来が練習用に千鶴子に与えたものであったことが発覚する。この不審な経緯に、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めて行った。
出典 御船千鶴子 - Wikipedia


御船千鶴子 - Wikipedia


千里眼の開山「御船千鶴子」


② 長尾夫人の透視


裁判所の判事長尾与吉の妻で、1男2女の母親であった。観音信仰が篤く、御船千鶴子に関する報道に刺激されて精神統一して修練を積み、透視ができるようになったという。的中率が高いと評判になり、讃岐実業新聞(現四国新聞)が報道して福来友吉の目に止まった[3]。
出典 長尾郁子 - Wikipedia


私は明治四十三年十月二十三日の東京朝日新聞の記事と、丸亀中学校教頭文学士菊地俊諦氏よりの通信とによりて、夫人の能力の非凡なることを知ったのである。そこで私は十月二十九日の夜、次の如き実験物を作った。

長方形の小さき厚紙に任意の文字三個を書き、錫箱にてニ重に包み、封筒に入れ、封じ目に絆創膏を貼付し福来友吉と言ふ認印を捺す。
 上の如き実験物五個を作り、菊地氏の許に送り、夫人をして封入の文字を透視せしめることを依頼した。其後菊地氏から書面(十一月四日発)が来て、実験の結果を報告したのであった。それによると、菊地氏が右個の内の一個を重箱に入れ、それを机上に置くと、夫人は机の前に端坐し、重箱に触るゝことなくして精神統一したのである。そして透視の結果に就いては、次の如く報告してあった。
来吉の二字表面にあり。次ぎには光るもの何枚もあり。其奥に天成雨の三字あり

天成雨の三字は、開封の結果・全然的中であった。光るものとは錫箱のことである。来吉の二字とは封じ目に捺した認印福来友吉の二字を透視したものである。だから、此一実験丈けによりて長尾夫人に透視能カあることは、確に認められた。
出典 http://www1.odn.ne.jp/fukurai-psycho/text/thoshina.htm


長尾郁子 - Wikipedia


長尾郁子による最初の念写及び川の念写


公開実験の中で写真乾板が紛失する事件が発生する


それでも郁子の主張を受け入れて、実験は行われました。しかし、その実験の際、実験室に保管していた写真乾板が紛失する事件が発生、山川らが謝罪して実験は続行されましたが、この失態により学者たちは世間のバッシングを受け、郁子も学者の一部から「念写と透視は詐欺だ」との見解を突き付けられてしまうのでした。郁子は学者への不信感を募らせ、それ以降、学者による実験を拒否し続け、1911年に肺炎によりこの世を去ったのでした。
出典 長尾郁子 - 霊能力入門


長尾郁子 - 霊能力入門


念写 - Wikipedia


被験者の相次ぐ死、と福来助教授の学会追放


同月18日、御船千鶴子は熊本の自宅で謎の服毒自殺を遂げ、翌2月26日には、丸亀の長尾郁子がインフルエンザと見られる病気により死亡します。相次ぐ能力者の死は、千里眼研究の継続を困難にします。


大正2(1913)年、福来は満を持して『透視と念写』を刊行しますが、「透視は事實である。念寫も亦事實である」との説が学界で受け入れられることはなく、同年10月27日付けで文官分限令に基づき東京帝国大学の休職を命じられます。理由は、「官庁事務ノ都合ニ依リ」とされていますが、マスコミによるスキャンダル報道等により学問の権威を失墜させたことに対する事実上の処分であったと見られています。
出典 第1章 千里眼実験を読む|本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館


第1章 千里眼実験を読む|本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館


千里眼事件に登場する学者たちの所属 拡大画像 | 本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館


立ち会っている学者の中には、千里眼は精神作用であると考える学者もいた


千里眼を物理現象ではなく、精神作用の面から説明する学者もありました。福来自身、当初は物理現象と考え実験していた節がありますが、次第に精神作用としての説明を行うようになりました。福来の恩師の一人である哲学者・井上哲次郎は、公開実験後に千里眼を形而上の問題として考えるべきと説いています。また、精神医学者の呉秀三は、催眠状態が感覚を鋭敏にさせることを指摘した上で、千里眼が通常の精神作用から余りにもかけ離れていることを理由に疑問を呈しています。精神作用の問題ととらえた上で否定しているわけです。
出典 第2章 学者たちの論争を読む|本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館


後年、関係者が記した手記では、流行性の熱病のようなものとの記述も


中谷は疑似科学事件について、「千里眼のやうな事件は、その國の科學の進歩とは無關係に生じ得るものである。それは人心の焦躁と無意識的ではあらうが不當な欲求との集積から生れ出る流行性の熱病である。そして其の防禦には、科學はそして大抵の學者も亦案外無力なものである」と述べています。戦後加筆された「附記」の中で中谷は、執筆当時「内閣と海軍と太平洋戦とを胯にかけた世紀の大千里眼事件が起つてゐたので、此の一文はそれを幾分でも喰ひ止める爲に書いた」と明かしています。
出典 第2章 学者たちの論争を読む|本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館


第2章 学者たちの論争を読む|本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館


相場に応用しようとした逞しい事例も


千里眼を用いて、相場でひと儲け……という本です。投資適格ならぬ「透視的確」と副題が付いています。内容は「宇宙精神」から説き起こし、「相場禅」を身につけることが推奨されます。何やら精神主義に偏っているように思われますが、附録として「本年の米に対する吾輩の千里眼観」が付いており、こちらは月毎の米相場予想もあり実用的です。さて、著者の千里眼は的中したのでしょうか。以下の資料に明治44年の米先物相場の統計が掲載されています。
出典 第3章 千里眼ブームを読む|本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館


第3章 千里眼ブームを読む|本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館


参考文献|本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館