「鳥は卵から無理に出ようとする。卵は世界だ。生まれようとするものは、ひとつの世界を破棄せねばならない。鳥は神のもとに飛んでいく。その神は、名をアブラクサスという。」
自らの尾をかむ蛇であるウロボロスであらわされる「第一質料」(プリママテリア)は、すでにプラトンの「ティマイオス」に述べられている概念で、あらゆる物体に共通で、しかもあらゆる形をとることができるものであるり、種子、混沌、宇宙の実質、絶対などの意味をもつ。
「曖昧なることを説明するのに一層曖昧になることを以て、未知なるものを説明するのに一層未知なるものを以て」
転移による密着した関係
「下なるものは、上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし」または「万物の一者より来たり存するがごとく・・・」「太陽のその父にして、月のその母」
「賢者の石」すなわちメリクリウスは「宇宙の魂」(アニマ・ムンディー)として、グノーシス主義の「光の乙女」のような女性の姿をとることもある。
我々はルネサンスが明るく、人間を中心にした合理的で自由な時代であったと思いがちだが、事実はルネサンスこそ魔術的でオカルト的な時代であった。
一人の人間の一生のあらゆる出来事は異なった二つの種類の結合によって成立している。第一は、自然過程の客観的、因果的な結合であり、第二は主観的で、これはものごとを体験する個人との関係の中でのみ存在する。この体験は客観的に証明することができない。
しかし、それはものごとに大きな意味を与える点ででは、その人によっては厳然と存在している。
これを認めるとすれば、人間の頭の中で想像できる唯一のことは、自然の中には原因と結果との結合性以外に、もう一つの別の因子が存在し、それが諸現象の中に表現され、それが我々によって意味としてあらわれるものと考えなければならない。これがユングの考えていた隠れたる神の存在であり、すべてを包括する因子の存在という過程であった。
老子によれば、それはまた無でもあるが、この無というのは、なにもないということでなく、感覚の世界ではとらえきれず、またあらゆることもない一種の「意味」であり、無はこの世界を構成する組織者でもある。
見えざる神、隠された統一者、無、恍惚、あるいは仏教の空は実在する。それは人間の意識や自我とはまったくかかわらないために、無であり、隠されたものであらねばならない。しかし、そこにこそ新しい世紀と新しい意識の誕生が存在する。それを信じると信ぜざるとにかかわらず・・・