【フランス】チュイルリー宮殿に現れる「王にその死を告げる者」
▽ 1564年に建造され、ルイ14世によって完成
1564年に摂政カトリーヌ=ド=メディシスの時に建造され、
ルイ14世が増築、完成させた宮殿。
出典 テュイルリー宮殿
メディチ家からフランスのブルボン朝王家に嫁ぎ、アンリ2世の王妃となる。
王の死後は摂政として16世紀中ごろのフランスの実権を握った。
時はユグノー戦争のさなかであり、彼女はカトリックの立場から
プロテスタントを弾圧、1572年のサンバルテルミの虐殺の黒幕とされる。
出典 カトリーヌ=ド=メディシス
▽ フランス革命時に、ルイ16世が幽閉される
再びテュイルリーに王宮が戻るのは、フランス革命最中の1789年のことであった(「ヴェルサイユ行進」を参照)。同時期、憲法制定国民議会において1791年憲法が制定され、1791年10月1日、テュイルリー宮殿で立法議会が開催されることとなった。
出典 テュイルリー宮殿 - Wikipedia
▽ チュイルリー宮殿の「赤い男」
伝説ではチュイルリー宮殿で「赤い男」に初めて出会ったのは、
カトリーヌ・ド・メディシスだということになっておりまして。
その正体についても、カトリーヌ・ド・メディシスの命令で
殺害された食肉処理人、通称皮剥ぎ人ジャンなのだと申します。
この「赤い男」はチュイルリーの庭園、あるいはルーブル宮殿
のその地下にある洞窟に棲み。
夜な夜な外に出ると、王侯や高位の貴族のところにのみ現れ、
彼らにその死期だけを告げるのです。
出典 王にその死を告げし者|エモリモエ|note
テュイルリー宮殿には、皮はぎジャンの伝説に関係する話があります。
ジャンは、宮殿からそう遠くない場所で肉屋を営んでいましたが、
宮廷内部の秘密を知りすぎていたために、
カトリーヌ・ド・メディシスの命令でのどを切られました。
死に間際、「戻って来る」という言葉を残したそうで、その死体は見つかりませんでした。
彼は、宮殿の未来の所有者の失墜と、宮殿の滅亡、そして自身の死を予見していたといわれています。その後、宮殿の「テュイルリーの赤い小男」と言う名で知られるようになり、宮殿へ定期的に出没するようになりました。
1871年5月23日、宮殿が燃えるさなか、多くの目撃者が、元帥の間の丸屋根が炎で焼け落ちる間、最後に宮殿の窓に赤い小男のシルエットを見たと語っています。
出典 テュイリュリー宮殿の幽霊 | ラ フランス 阿佐ヶ谷
▽ ナポレオンも、チュイレリー宮殿で「赤い男」に会う
1814年1月、ナポレオンは側近の者に、
「誰が訪ねてこようと、決して面会はしないから、
取り継がぬように。余は一人になって、
ゆっくり策を練りたいのだ」
と言いおくと、チュイルリー宮殿の自室に引きこもった。
このとき彼は、心身ともにくたくたに疲れていた。
出典 サン・ジェルマン伯爵の謎 2
ところがちょうどその頃、ナポレオンのもとに1人の訪問者が
訪ねてきたことを側近が知らせにきた。
誰とも話す気になれなかったナポレオンは、
追い返すように命じた。
すると側近は、
「『赤い服の男だと言ってくれればわかるはずだ』
と申しておりますが……」
と言った。
出典 サン・ジェルマン伯爵の謎 2
▽ 赤い男=サンジェルマン伯爵?
一説によると、この赤い男は、有名な不死の人「サンジェルマン伯爵」だとも言われている。
出典 マリー・アントワネットが伝説の幽霊に会った日~フランス王室が恐れたチュイルリー宮殿の「赤い小男」-謎カレンダー
当時のサン・ジェルマン伯爵の友人の証言によれば、扉を通らないで自室や友人の部屋に姿を現すだけではなく、そこから同様にして出ていく(普通の人が見ると姿が消えるように見える)ことができたという。
出典 サン・ジェルマン伯爵の謎 2
マリー・アントワネットが伝説の幽霊に会った日~フランス王室が恐れたチュイルリー宮殿の「赤い小男」-謎カレンダー
謎の人「サンジェルマン伯爵」とは何者か? | 欲しい欲しい王子の不思議なブログ - 楽天ブログ
組曲『展覧会の絵』 3 テュイルリーの庭 / ムソルグスキー《ラベル編》(Computer Music)