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魂のコード

そこで本書では、簡潔に、召命(コーリング)、運命(フェイト)、そして性格(キャラクター)の天賦のイメージを取り扱う。これらすべてがどんぐり理論を形作る。どんぐり理論では、一人一人の人間は生きることを要請されている個性(ユニークネス)、また人生の中で実現される前から既に存在している個性を持っているのだと説く。(22)

 

一人一人の人間は、この世界に召命されてやってくる。この考え方は、プラトンの最もよく知られた著作「国家」の最後に出てくる。エルの神話に由来する。・・

私たちひとりひとりの魂は生まれる前から独自の守護霊(ダイモーン)を与えられている。それが私たちがこの世で生きることになるイメージやパターンを選んでいるのである。私たちの魂の伴侶、ダイモーンは、そこで私たちを導いている。しかし、この世にたどり着く前に、私たちは彼岸で起こったことをすべて忘れ、白紙でこの世に生まれ落ちたと思い込む。しかし、ダイモーンはあなたのイメージのなかに何があるか、そしてそこにはどんなパターンがあるのかを忘れはしない。あなたのダイモーンはあなたの宿命の担い手でもあるのだ。

のちのプラトン主義者のなかでももっとも偉大なプロティノスが説いたように、私たちは自分自身で魂に見合う肉体、両親、場所、環境を選んだのであり、しかもそれは神話が語る通り必然の原理に導かれていることなのだ。(24)

 

ダイモーンの意図を理解し、幼いころのダイモーンのかすかな動きをとらえよと、神話はほのめかしている。そして、ダイモーンの意図を理解し、その働きを阻まないようにしなければならない。

a/召命を人間存在の基本的な事実として認めること

b/人生を召命とつなげること

c/失恋やさまざまな出来事などを含めて肉体が経験する偶然の事件はイメージのパターンに起因するものだということ、そしてそれらは必要なものであって召命を実現させるためのものだとみなす、共通の認識をもつことである。

召命は、遅らせたり避けたり、いっときは見過ごすこともできよう。あるいはそれがあなたを完全に支配することもあろう。しかし、結局、最終的に召命は姿を現す。運命は、運命を主張し始めるダイモーンは決して立ち消えない。(25)

 

傑出していることは、特定の道に導く召命の非凡な力を示しているのである。・・運命が私たちに求めていることを、彼らの運命を見ることによってはっきりさせようというわけだ。(54)

 

小さな作品には当てはまるが、偉大な作品にあてはまらない方法は、明らかに間違ったところから出発している。・・・凡庸さじゃ例外的なものを還元すれば理解できようが、例外的なものは凡庸なものを拡大しても理解できない。論理的にも、因果的にもいっても偉大なものは、・・・より理解しやすいカテゴリーを与えるという点で重要なのである。(55)

 

13世紀スペインで発展したカバラ生命の樹では、下へ伸びていく枝が魂のいきざまであると想像されている。魂は下降するにつれ、どんどん現実化してゆき、可視的になってゆく。・・情報の領域や象徴はこの世的なものと比べれば秘儀的(オカルト)ではなく、「足はいつまでも神秘」なのである。この逆さまの下降の証拠が得られる。徳とは、謙遜、慈しみ、教えること、などの「低める」ことにあるのであって、「傲慢」になることではないのだ。・・

下降にまつわるプラトンの物語は、エルの神話だ。(69)

 

こんな瞬間に対する防護策として、孤独を説明する哲学、あるいは孤独を否定する処方箋をわたしたちは作り上げてきた。哲学によると、現代社会の故郷から切り離された、慌ただしい都市生活と非人間的な仕事がアノミー(既存の価値観の崩壊によって生まれる混沌)の社会状況を生み出したという。・・孤独は犠牲にされていることの症状なのだ。・・だから、システムを変革しよう。「つながれ、つながりさえすればよい」というわけだ。社交生活をせよ。回復グループに参加せよ。何かにかかわれ。電話には出よ。あるいは、医者に抗鬱剤の処方を書いてもらえ。(81)

 

絆は、事実のところ科学的発見であるというよりイデオロギーの延長線上にあるものでもある。(106)

 

私たちは両親(ペアレンティング)の犠牲ではなく、両親というイデオロギーの犠牲者なのだから。そして母親の致命的な力の犠牲というより、母親にそんな力を与えた理論の犠牲者なのだから。(108)

 

ダイモーンがあなたに召命を思い出させるための「ヒント」はさまざまだ。ダイモーンはあなたを動機づける。ダイモーンは守る。ダイモーンは作り話をし、執拗なまでに何かに取り組ませる。ダイモーンは妥協を許さず、しばしば本人に逸脱や奇行を強いることがある。(特にダイモーンが否定されたり、妨げられたときには)
ダイモーンは安らぎを与えたり逃げ場を作ったりもするが、無邪気なままでいさせることはない。また肉体を病気にさせることもある。
ダイモーンは時間と歩調を合わせず、人生の流れの中にあるあらゆる過ちやギャップ、節目を作り出す。ーしかも、ダイモーンはそれをむしろ好む。ダイモーンは神話と深い関係にある。なぜなら、ダイモーンは神話的な存在であり、神話的なパターンにしたがって思考するのだから。

ダイモーンは予見の力を持っている。ただし、それは具体的な事件を予見するものではない。・・ダイモーンにはイメージにそって出来事を支配したり召命を成就させることはできない。その予見は、完璧ではなく、ダイモーンが宿っている人生にとって重要さをもつ範囲に限られている。ダイモーンは不死である。ダイモーンは、消え去ることなく、単なる人間的な(モータル)説明によって殺すことはできない。(63)

 

火星占星術講座

ルドルフ・シュタイナーは、金星はミクロコスモスへの誘い、火星はマクロコスモスへの誘いと説明しています。朝目覚めたときに、私たちは自分の体と同化します。身体には感覚が備わっており、この感覚を通して、私たちは目覚めた後のこの世界を見たり、触ったり、味わったりします。

シュタイナーの説明によると、この感覚を通して見ることのできる小さな世界、ミクロコスモスへと金星が誘導し、この中で水星が夢見、月が行動する役割であるとしています。ミクロコスモスの中で、さまざまな可能性を探求し、考えていくのは水星ですから、これをミクロ世界において夢見とみなしたのです。

昼の活動が終わり、夜、疲れ果てた私たちは眠りにつきます。ここで私たちの実体は身体から離れてゆくと考えられています。身体と感覚は結びついていますから、身体から離れるにつれて感覚も働かなくなり、これまで見ていた小さな世界、ミクロコスモスを見たり触ったりすることができなくなります。

火星は地球の外、すなわち身体から外の大きな宇宙へと誘います。これがマクロコスモス、人間個体を超えた世界への旅の始まりです。

そしてこのマクロコスモスでの夢見が木星、そこでの行動が土星だと解釈されています。(10-11)

 

この一人の人が金星も火星も発揮することの重要性は、もっと大きな意味も含んでいます。占星術では、10個の惑星全部をあわせて一人の人間を構成していると考えます。未熟な人間というのは、これらの惑星が意味する作用を全部、自分の外に、環境に投げ出して生きている人です。成長するとは、その一つ一つを取り戻して自分のものとする。そして、依存しない、人のせいにしないという人生を作り出していくということです。

火星を取り戻しておらず、外界に依存している人は、この火星のような作用に対してまったくコントロールできない状況に陥ります。まず、人から迷惑をかけられやすいのです。(18-19)

 

火星の作用がまだちゃんと体に合っていないという点では、この牡羊座の火星はあまり通俗的でもないし、また前に住んでいた宇宙の記憶が無意識に残っているという点から、直感的な理解力が鋭く、なんとなく世離れしている面があります。妥協もせず、損得も考えることもしないでしょう。(34)

 

心身を浄化する瞑想「倍音声明」

倍音声明で瞑想を深めることができれば、当然、瞑想能力が向上します。

瞑想能力が向上すれば、集中力や洞察力、直観力、精神力、生命力が高まることでしょう。

しかし、重要なことは実践であり、それを続けることなのです。結果として、身体を通した効果が必ず現れるのです。(56)

 

そもそも、自分自身の悩みや問題は、だれかに相談しても、最終的な回答は得られません。最後は、自分で答えを導き、決断することになります。

そのため、瞑想によって自分の内部に意識を向けることができるようになると、心は落ち着き、正しい答えを引き出せるようになるのです。(72)

 

ムーラ・バンダとは、寿命を延ばす効果があるといわれるヨーガの重要なテクニックです。やり方は次ページのようになります。

 

リラックスできるように坐り、背筋を伸ばす。

肛門を体内に向けて締め上げるようにすぼめる。そして力を抜く。

これを繰り返す。

「力を入れる・抜く」の動作は最初はゆっくりでかまわないが、慣れてきたらなるべく早く行う。最低でも一分は続けるようにする。

肛門のなるべく狭い範囲だけを使って引き締める。腰の周りや腹部には力をいれない。力を緩めるときは、中途半端に緩めたりせずに、徹底的に力を抜く。(107-108)

 

夢の劇場

多種多彩な夢が人間の意識は肉体とは別個に存在しうることを示している。これはすなわち、原始人が自分たちを本質的に二つの世界に存在する者ー目覚めている実体として昼に生きる夢と夢を見る魂として夜にあらわれる者ーとして考えはじめたことを意味する。(161)

 

彼ら(北アメリカの部族)は、夢を内的な存在が別の世界を旅することだと捉えており、あまりにも現実性と実質があるために、夢の中の出来事はすべて目覚めている状態にも同様の影響を及ぼすのである。(165)

 

知覚の障壁を破るには。通常はかなりの力の心理的なもうだが必要であり、導師の苛烈極まりない振る舞いにまつわる多くの話や、弟子が師を信頼しなければならないと主張されるわけが、これによって説明づけられる。(182)

 

神秘家の世界には、自由と悟りに向かうまったく異なった二つの道、あるいは径路があるようだ。それらは意志の道と降伏の道である。

まずもって修行と支配が不可欠だ。特定の手順をたゆまず繰り返すことで、ゆっくりしたものであれ、着実に、われわれ自身の日常存在の幻影を維持する意識を持った精神が疲労する。精神は純然たる粘りには堪えられないようだ。その結果、これを実践する者は疲労困憊するにせよ、精神は屈服する。

降伏の道においては、戦ったり流れに逆らったりせず、流れに従ったり、風に吹かれるまま体を曲げたりする。いずれの道も最終的には同じ目覚めに至るようだ。呪術師と神秘家の本質的なちがいは、これらの道の対極性にある。(184-185)

 

フイ=ネンは、霊的探究を忘れ果てていたが、その精神は緊張を解いており、おのずから自然に悟りが開かれた。寺で努力している僧侶たちは、フイ=ネンが身に着けていること ー努力しないでいることー を欠いていた。(187)

 

エネルギー組織の最悪の穴は、エゴ、すなわち個々の実体の社会的な仮面である誤った自己感覚である。われわれはこの幻影のペルソナを真の自己であると確信しているが、ペルソナは自らつくりだしたドラマや自尊心のために常に注意を必要とするため、最大のエネルギー排出口なのである。利用できるエネルギーの大半が、尊敬されたい、愛されたい、認められたいという果てしない欲求とともに、自分が価値ある存在だという感覚を補強するため、エゴの配管を流れ落ちていく。この不断の排出がなければ、われわれを包み込むとととみに恐ろしい幻影の自己を作り出している、常習的な知覚の牢獄を破れるほどのエネルギーがはるはずだ。(191)

1 夢から自然に目覚めた早朝のうちに、記憶してしまうまで、何度も夢を思い返すこと

2 ベッドに横たわって眠りに戻るとき、「今度夢を見ているときは、忘れずに夢を見ていることを認識したい」と自分に言い聞かせる

3 夢に戻ったことを思い浮かべ、今度は自分が夢を見ていることを認識しているのを確かめる

4 あなたの意図が固定するか眠り込むまで、2と3を繰り返す

ラバージは興味深い関係を作り出している。この訓練にかかわる精神状態は、われわれが特定の時間に目覚めようとするときに採用するものに酷似しているのだ。(224)

 

エゴは自らつくった要塞から絶えず斥候を送り出し、領域を広げられるかどうか、避けるべき脅威があるかどうかを探っている。斥候が持ち帰る情報は、チベット人が三つの根本的な毒と考えるものになる。エゴを強化し、その領域を広げることのできるものは情報の魅力であり、外部の驚異的な力に反応するのは攻撃であり、強化することも脅すこともできないものはすべて無知にあると考えられる。これら三つー情熱、攻撃、無知ーから、一連の複雑なプロットやサブプロット全体が生じ、それがエゴを完全に夢中にさせる。この基本的な三つに、増長と弁別が加わる。(233・・三毒

 

チベット死者の書」そのものは、不思議にも実際には死に基づくものではない。再誕の書と呼ぶべきものであって、おそらく「チベットの夢の書」と呼ぶのが最もふさわしいだろう。・・「死者の書」が述べているのは、そうした痕跡(死の修行は死者が残す霊的な力にかかわっている)に基づいて行動することではなく、バルドゥ、すなわち死の際に起こる亀裂ないしは間隙を扱っている。

しかしバルドゥは現象世界を扱う時の状況全体の一部なのである。バルドゥにおいて、われわれは人生を維持している幻影全体に出会うことができる。この幻想のマトリックスは死の際にふたたび出会うことになる。

チベット仏教徒は我々が宇宙の構造全体を創造すると主張する。死の際にわれわれは六つの段階としてあらわれるものによってこの事実を示される。これらは地獄、飢餓、畜生、阿修羅、人間、天という、六つの心理学的な幻影の領域(六道)に対応している。

われわれはこうした幻影をそのままに認識(投影)するか、あるいはそれらに同一化するようになって、ふたたび幻影の人生の輪廻に加わることになる。(243・・六道)

 

光の修行・・この技法はゾクチェン派が「自然光の修行」の一部として用いる瞑想である。・・あなたの体の中心にチベットの文字Aを思い浮かべて、そこに精神を集中する。(245・・阿字観)

 

6つのバルドゥ(間隙)があり、そのすべてを明晰夢によって調べることができる。

最初のバルドゥは通常の意識の覚醒時の状態である。第二のバルドゥはわれわれが眠っているときの夢の時間だ。第三のバルドゥは瞑想の状態で、すべての認識をふくむ。第四のバルドゥは体の五つの要素がたがいに溶けこんでいく死のプロセスである。(247)

 

眉間に意識を集中すべし。

心を思念のまえに置くべし。

息の本質を頭頂部にいたるまで満たし、光を浴びるべし

(262)

 

この夢と現実の曖昧さは、ソクラテスが提起したテーマの一つだった。プラトンの「テアイテトス」においては、ギリシャの賢人は次のように問いかけた。

誰がいまこの現在において、われわれは眠っているのか、われわれの考えていることはすべて夢なのか、それともわれわれは目覚めていて、お互いに話し合っているのは現実なのかとたずねたら、人はこれに応じることができるのだろうか。

 

 

 

 

 

クンダリニーヨーガ

基礎行法

足首を回す行法

合蹠(がっせき)・・足の裏を合わせる

メビウス行法(横メビウス・縦メビウス・横縦メビウス1,2)

 

本格行法

片足立行法

呼吸行法

 

体の柔軟さにはかなり個人差があるが、問題なのは柔軟さではなくどこまであきらめずに続けるかである。途中でそこであきらめると、そこからの前進は望めない。逆に言えば、どんなに身体が固くてもあきらめなければ、可能性はどこまでも広がることになる。(58-59)

 

第一輪 ムーラーダーラ・チャクラ(脊椎最下部)

ブラフマ結節

第二輪 スヴァデシュターナ・チャクラ(仙骨叢部)

第三輪 マニプーラ・チャクラ(臍部)

第四輪 アナーハタ・チャクラ(心臓部)

ヴィシュヌ結節

第五輪 ヴィシュッダ・チャクラ(咽頭部)

第六輪 アージャニュー・チャクラ(眉間部)

ルドラ結節

第七輪 サハスラーラ・チャクラ(頭頂部)

 

4セットを何回も繰り返してなれたら、それに合わせてアジャパジャパ(マントラを声を出さずに唱えること)で「オームナマシヴァーヤ」を唱えるようにする。容量としては、締める(オームナマシ)、ゆるめる(ヴァーヤ)、休む(オームナマシヴァーヤ)というリズムで頭の中で唱えれば、大体4秒ずつと同じになる。(107)

 

本当に確実な技法は、数少ない本物の師から実力のある弟子へと細々と伝えられてきた。逆に、いいかげんな技法は大勢の弟子を集めて派手に宣伝するので、大きな組織となり、社会的な認知度は高くなる。(217)

 

 

鏡リュウジの占星術の教科書(深く未来を知る)3

運行速度が全く異なるプログレスとトランジットで、偶然にも、ともに火星と冥王星が強烈にアスペクトしていることがおわかりいただけるでしょうか。

これが僕が星のレゾナンスと呼ぶものです。(243)

 

こうした星の動きから具体的な事件や心の成長を「予言」することはできません。ホロスコープはその人に起こる内的な、あるいはそれとシンクロする外的な変化を象徴という形で映し出すだけです。・・占星術にできるのは、そのプロセスを星のシンボルによって、常識とは異なる視点から見つめて寄り添うことだけです。・・

人生という冒険の旅は、いわゆるハッピーエンドばかりではないかもしれません。けれど人生の物語がほかの人から見て「失敗」であろうと、誰にもそれを裁くことも嗤うこともできません。なぜなら、一つ一つの人生はどんなものであれ、ほかと交換のきかないかけがいのないものなのですから(253)

 

占星術では生まれた時のホロスコープは、その人の「種子」のようなものだと考えています。そこには未来の可能性が詰め込まれていて、トランジットやプログレスといった星の巡りが作り出す季節と時間とともに、芽が吹き、葉をつけ、枝を伸ばして二つと同じ物のない「樹」へと成長していきます。(254)

 

 

 

伝奇集(ボルヘス)

交合と鏡はいまわしい、・・それらグノーシス派に属する者にとっては、可視の宇宙は、幻想か、(より正確には)誤謬である。鏡と父性はいまわしい、宇宙を増殖し、拡散させるからである。(15、トレーン、ウクバール、オルビウス・テルティウス)

 

現実にも秩序がある、という答えは無効だ。そのとおりかもしれないが、しかし現実は、われわれが究極的に認識しえない神の法則 ー換言すれば、非人間的な法則ー にしたがっている。トレーンは迷路かもしれない。だが、それは人間たちによって工夫された迷路、人間たちによって解かれるようさだめられた迷路なのだ。(39)

 

全能の神も何者かを求めており、この者もさらに上位の(あるいは、単に不可欠な同等の存在である)何者かを求めていて、これが時の終わりまでーむしろ無限にー、つまり円環的に続くという予測についてはである。(48)

 

アル・ムターシム(八度の戦いで勝ち、八人の男子と八人の女子をもうけ、八千の奴隷を残し、八年八か月と八日の間王位にあった。かのアッバス朝第八代のカリフの名前は語源的には救いを求めるものを意味する。(48)

 

・・・真実、その母歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管所、過去の証人、現在の規範と忠告、未来への警告。(66)

 

グノーシス派の宇宙生成説によれば、造物主は脚で立つことのできない赤いアダムをこね上げる。(76)

夢みていた男の夢の中で、夢みられた人間が目覚めた。(77)

おのれもまた幻にすぎないと、他社がおのれを夢見ているのだと悟った。(80)

 

バビロニアの人間はあまり思索を好まないのである。彼(バビロニア人)は、偶然のくだす判断を尊重し、それに自分の生命や希望や深刻な恐怖などを賭けるが、偶然の迷路じみた法則やそれを示す回転する球体を研究することは思いつかない。・・仮にくじ引きが偶然の強化、宇宙の内部への混沌の定期的な浸出であるならば、偶然がくじ引きの一つの段階ではなく、あらゆる段階に干渉するのは、むしろ好都合ではないか?偶然がある者の死を命じながら、その死の情況ー秘密性、公然性、一時間もしくは一世紀の期限ーは偶然に従わないというのは、おかしくはないか?(88、バニロニアのくじ)

 

図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達不可能な球体である。・・第一に図書館は永遠を超えて存在する。・・第二に正書法上の記号の数は25である。(88-89、バベルの図書館)

 

図書館は無限であり周期的である。どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、おなじ書物がおなじ無秩序さで繰り返し現れることを確認するだろう。(116、バベルの図書館)

 

「崔奔の運命は変わっていますね。」とスティーブン・アルバートがいった。「生まれは故郷の州知事で、天文学占星術に通じ、経典のたゆみない注解者で、棋士で高名な詩人で書家でした。そのすべてを棄てて、彼は一冊の保温と迷路を作ろうとしたのです。(129、八岐の園、はちまたのその)

 

「わたしの考えるところでは、あらゆる問題の中で、時間という深遠な問題ほど彼を悩まし、苦しめたものはありません。ところこれこそ、「八岐の園」のページに姿を見せていない唯一の問題なのです。時間を意味する言葉さえ使われていない。・・」

「チェスが解答である謎かけの場合、唯一の禁句は何だと思います?」・・「チェスという言葉でしょう」(135、八岐の園)

 

「時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する網目を信じていたのです。たがいに接近し、分岐し、交錯する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。・・・」

「時間は永遠に、数知れぬ未来に向かって分岐し続けるのですから、そのうちのひとつでは、わたしはあなたの敵であるはずです。」・・・

「未来はすでに存在しています」

 

「現代の」ことばや方言がそれから派生したと推定されるトレーンの祖語(ウルスプラシュ)には、名詞は存在しない。副詞的な価値を有する単音節の接尾辞(もしくは接頭辞)で修飾される、非人称動詞が存在する。一例だが、月(ルナ)に相当する単語はないが、スぺイン語でなら月にする(ルネセル)か月する(ルナル)に相当すると思われる動詞がある。月は河の上にのぼった、つまり逐語的に訳せば、上方に(アップロード)、背後に、持続的に流れる、月した、といわれる。

以上は南半球の言語についての話である。北半球の言語ーその「祖語」にかんしては、第十一巻にはごくわずかな資料しかないーにおいては、基本的な単位は動詞ではなく、単音節の形容詞である。名詞は、形容詞の積み重ねによって造られる。人々は月とは言わない。暗い=円い、上の、淡い=明るいとか、空の=オレンジ色の=おぼろのとかいう。(トレーン、ウクバール、オルビス、テルティウス、23)

 

一人の人間のすることは、いってみれば万人のすることです。ですから、ある庭園で行われた反逆が全人類の恥になっても、おかしくはないのです。また、一人のユダヤ人の磔刑が全人類を救っても、決しておかしくはないのです。(刀の形、167)

 

従来イスカリオテのユダにたいしてなされてきた解釈は、ひとつならず、すべて虚偽である。(ド・クィンシー1857年)・・ド・クィンシーは、ユダがイエス・キリストを裏切ったのは、その神性を明らかにするためであり、ローマのくびきに対する大規模な反逆の火を煽るためだ、と考えたのだった。

ルーネベルクは哲学的な証明を示唆している。巧妙にも、彼はユダの行為の無益さを指摘することから始めている。彼は(ロバートソンと同様に)、毎日のようにシナゴーグで説教し、何千人という会衆の前で奇跡を行っている師を確認するのに、使途の裏切りは必要としない、と述べている。・・・世界史の中でももっとも重大な事件の中に偶然の介在を認めることは、やはり耐え難いことだ。ゆえに(エルゴ)ユダの裏切りは偶然ではなかった。それは救済の営みの中に神秘な場所を占める、予定された行為だった。・・・つまり神言は肉となったとき、偏在から空間へ、永遠から歴史へ、無限の至福から変転と死へち変わったのだ。このような犠牲に応えるためには、一人の人間があらゆる人間を代表して、ふさわしい犠牲を払うことが必要だった。イスカリオテのユダこそ、その人間である。使徒たちのなかでユダ一人が、イエスの隠れた神性と恐るべき意図を直感した。神言は人間に身を落とされた。神言の弟子であるユダも身を落として密告者となりーこの最悪の罪に耐えうるのは汚辱そのものだー、消えることのない火に身をゆだねることができるだろう。

下位の秩序は上位の秩序の鏡である。地上のもろもろの形は天上のもろもろの形に相応する。皮膚のしみは清らかな星座の地図である。ユダはある意味でイエスの写しである。このことから、三十枚の銀貨とくちづけが生じたのだ。このことから意志的な死が生じて、いっそう永罰にふさわしいものとされたのだ。(ユダについての三つの解釈、215ー216)