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善財童子 求道の旅

51 徳生童子と有徳童女

私たち二人は菩薩の解脱を得ております。幻住とでも言いましょうか。一切世間は夢、幻のごときもの。すべては幻の因縁から生じた幻です。悪業も煩悩も幻なるがゆえに一切衆生は幻なのです。一切衆生は幻の無明と有と渇愛が生み出した幻といえましょう。生老病死、苦悩と悲哀、みな虚妄なる分別から生じた幻なのです。三界のすべては作り出されたものであり、幻の不可思議なる世界の出来事なのです。ただ私どもはこのことを知っているだけなのです。(115)

千夜一夜物語 11

気前のよい掌の老人の物語

その方法そのものと同じくらいあてにならない、多くの事情が運に左右されるんですから。そういう事情や運なぞは、論じていたらきりがない。まあ私としては、手持ちの金が全然ない貧乏人だって、少なくとも、多少の金のある場合と同じだけの、金持ちになる機会はあると、こう思う。という意味は、その男は、最初の投資がなくても、たちまちのうちに、大変な金持ちになりうる、それも少しも骨折らずに、単にそれが彼の運命のうちにあるというだけのことでね。それだから、悪い日に備えて倹約しておくなんて言うことは全然無駄だと思う。悪い日も好い日も、アッラーから来るのだからね。報賞者が日々我々にお授けになる福利を、けちけちしてからに、残りを貯えておこうなんて心がけるとは、とんでもない誤算だよ。(323)

 

俺たち貧乏人にはちがいない。だが要するに、金持ちだって、世の中で俺たち以上に何を持っているかね。俺たちだって同じ空気を吸ってはいはしないか。同じ空を、享けていはしまいか。金持ちだって結局のところ、俺たち自身と同じように死んでしまうのじゃないか。(335)

 

ひと塊の鉛も、もし天運が望めば、必ず一人の人間の産を成させることができると予言しなすった(344)

 

 

 

 

ヒトラーとオカルト伝説

1920年代、ヒトラーはシュタイナーを自分にとっての最大の敵とみなし、政治集会において彼を悪しざまにののしり、魔術を用いてドイツ軍支配層のこころを操っていると非難したという。さらにレイヴェンズクロフトは、シュタイナーが「トゥーレ協会」の悪魔的性質を見抜いていたと指摘する。第一次大戦前、この民族主義団体のメンバーにはオカルト信奉者が含まれていた。

しかし戦後になると、「トゥーレ協会」は、バイエルン社会の高級官吏における強力な右翼的民族至上主義の威力としての姿を呈してきた。
1919年の共産主義者の暴動では、あるテロリスト組織により右翼に武器が供給され、ドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義をうたった書き物が配布されたといわれている。そのメンバーにより創始されたのがドイツ労働者党であり、それをヒトラーはナチ党へと転換させたのである。

シュタイナーは公然と、ナチスの秘めた目的についてドイツに警告を行ったため、「トィーレ協会」の暗殺者リストのトップに載せられていた。1923年、「トゥーレ協会」内部に潜入していたヴァルター・シュタインは、シュタイナーをミュンヘン駅の列車内で暗殺する計画を聞いたという。銃身を短く切った散弾銃で、近くから顔を撃つことになっていたのだ。この計画は、シュタインが仲間とともに駅に折よく到着したので、未然に防がれた。この救出のあと、シュタイナーはドイツからスイスに逃れ去った。(77)

 

ヒトラーは、彼自身が二つの大きな力ー外界からもたらされる「神意」と内部からやってくる「直観」、そしてそれを結合するパイプの役割を果たす「内的な神秘の声」ーにより強力に導かれていると公に認めていた。そして、この力はオカルトに根差したものだと多くの人びとが信じていた。(131)

 

「私の知覚は断じて五感を通して得られたものではない。そんな知覚なら、そこまでたどり着く過程を論理的に追跡できるはずである。・・私の場合は、アインシュタインが目や意識を用いたのではなく数字にとって覗き込んだと同じ超次元世界から直観力を用いて知覚を得ているのだ。」
しばらく議論を続けた後、ヒトラーは不思議なメッセージを受け取っていると感じた時の出来事を、「身体の内側から振動するような感覚で、得体の知れない電気に触れられているようだ」と述べたという。そして、いつでもこの衝撃に注意を払えば、言うこと為すことのすべては結果として正しくなると語った。そして、もしそれを無視すれば、後になって「内なる声」に従えばよかったと思わされる結果が必ず待っていたというのであった。
またヒトラーは、直感を得ている瞬間に起こる理性の干渉について「天来の閃きに欠けた他人の影響下にみずからを委ねるようなことをしていては、好機は逃げ去り、それを腹に据えかね頭を叩いて悔しがりながら、もしあの時、最初に感じた通りにしていればというはめに陥るのだ」と罵倒したのである。(137)

 

サスター(とレイヴェンクロフト)は、日本滞在中のハウスホーファーは「緑龍」と呼ばれる密教組織に入門していたという。入門に際しては、意志の力だけを用いて種子の発芽を促し、それを成長させ、数分のうちに花を咲かせるという修練が課されていた。(239)

 


ヘスの部下の一人シュルテ=シュトラハウス博士は、1941年1月、まもなく天文学的に重要な出来事が牡牛座の星位に起こるとヘスに告げた。それは六つの惑星が直列し、満月が重なるときであった。そしてこの現象が起こる日は、1941年5月10日だというのだ。(248-249)

 

 

 

インド占星術と運命改善法

12ハウスは基本的に「失う」ハウスです。インド占星術では、あるハウスのひとつ前のハウスは数えて必ず12番目にあたるため、次のハウスの意味を失うハウスになります。例えば、10ハウスは社会的地位のハウスですが、9ハウスは10ハウスを「失う」ハウスとなり、「社会的地位を失う」ハウスにもなります。

このハウス展開によってより多くの象意が導き出されるのです。(101)

 

カルマは「行為」ですので、肉体や意識に蓄積されていくという考え方がインドにはあるのです。
カルマは特に肉体上では「関節」に溜まりやすいとも考えられていますし、同時に意識上では「潜在意識」に蓄積されると考えられています。
また、占星術特有の見方をすると、過去生の自分の行いは、星からの影響という形で我々の肉体・意識・人生に跳ね返ってきます。

そのため、様々な「アーサナ(ポーズ)」をとり、体を隅々まで動かしコントロールして、体中の関節に働きかける「ハタヨーガ」と、瞑目することによって意識を内側に向け、潜在意識に働きかけてく「瞑想」は、「カルマの解消」に非常に大きな効果があるといわれています。

瞑想で「サマーディ(三昧=究極の瞑想状態)」をコンスタントに体験できるようになり、更にその上の段階として日常生活もサマーディ(厳密にはサマーディとは4つの段階がありますが、本書では大まかにサマーディと認識してください)」に由来する特別な意識状態で過ごせるようになると、宿命上で起こることが決まっている「カルマ」に由来する出来事は、例え起こったとしても「カルマ」としてその意味を為さなくなると考えられています。(188)

 

虹と水晶

人は、危害をうけるのではないかと想像し、その想像上の危害から自分を守ろうとする、自己防衛本能を持っている。だが、自己防衛のための努力は、結局それまで以上の苦痛をもたらす。自己と他者という、狭苦しい二元論的ビジョンに縛られることになるからである。
最も恐ろしいものを呼び出し、ふつう一番守りたいと思っているものをあからさまに供物として捧げてしまうことによって、チュウは、自我と肉体への執着という二重の束縛を、一気に切断する。

実際、チュウという名前は、「切断する」という意味を持っているのである。だが、切断してしまわねければならないのは執着であり、肉体そのものではない。人間の肉体は、悟りを得るための貴重な乗り物だと考えられているのである。(72)

 

自分自身の心の中以外に仏陀を見出すのは不可能だ。このことを知らないのは、それを外に探しに行くことだろう。だが、自分自身の内側を探し求めていく以外に、自分自身を見出すことができるだろうか。自らの本質を外側に求めるものは、たくさんの人に囲まれて演じながら、自分が誰だったか忘れてしまい、そこいらじゅうを探し回っている愚か者のようだ。(パドマサンバヴァ「完璧な覚醒をもってみることによる自己解脱の書」(83)

 

土台ないしチベット語の「シ」(gZhi)という言葉は、宇宙および個人の両方のレベルにおいて、存在の根本的土台になっているものを指している。宇宙も個人もその本質は同じだから、一方を悟れば、もう一方も悟ることになる。みずからを悟れば、宇宙の本質も悟ることになるのである。(84)

 

ひとりひとりの生き物の条件づけられたあり方が、カルマの痕跡から生じてくるのと同じように、宇宙もカルマの痕跡によって生じてくる。

たとえば、古代チベットボン教占星術によれば、現在の宇宙が創造される以前にあった空間は、すでに破壊された前回の宇宙のサイクルに存在したものから残された、潜在的なカルマの痕跡だという。(88)

 

チベット仏教では、どのレベルの教えにおいても、生き物は、身、口、意の三要素からなっていると考える。この三者の完璧な境地は、オーム、アー、フームというチベットの音節文字によって、それぞれ象徴されている。

身というのは、その生き物の物質的な次元すべてを指す。これに対して、口は、サンスクリットではプラーナ、チベット語ではルン(rlung)と呼ばれる。体に生命力を与えるエネルギーであり、その循環は呼吸と結びついている。

意は、理性的思考に基づく表層的な意識と、心の本然の両方を含む。心の本然は、理性を超えているのである。

普通の生き物は、身、口、意はひどい制約を受けている。そのため完全に二元論にとらわれ、二元的にリアリティを見ることになる。この二元論的な見方を、不純な、ないしカルマ的な顕現と呼ぶ。カルマの因、すなわち過去の行為の結果は、たえず生じ続けている。それに制約され、ついには、まるで鳥籠の中の鳥のように、自分の制限づけられた世界に閉じ込められたまま、意規定ことになるからである。(92)

 

この空性は、たとえて言えば、鏡の持つ根源的な清浄さと、透明さのようなものだ。ラマは、弟子に鏡を見せて説明する。鏡そのものは、自分にうつしだされるものを、美しいとも醜いとも判断しない。どんな像がうつっても、鏡は不変のままだし、それによって鏡の反射能力がそこなれることはない。

心の空性は、鏡と同じ性質を持ち、清浄で透明な輝きに満ちている。何がそこに生じようとも、空である心の本性は決して失われたり、そこなわれたり、あるいは曇らされたりすることはないのである。(95-96)

 

私たちは、自分の自我を相手に、ありとあらゆるゲームを演じている。

だが、そういう骨折りのあげく、たぶん、自覚することすらないまま、自分自身で鳥籠を作り上げているのである。

だから、最初にすべきことは、その鳥籠を発見することだ。

そのためには、つねに自分自身を観察するしかないのである。

・・

自分自身を観察することによって、自分がどんな鳥籠にいるのか、発見することができる。だが、発見したら、本当にそこから出たいと思うことが必要だ。鳥籠の存在を知るだけでは不十分なのである。(111)

 

 

 

 

 

「老子」新訳

この無限の空間(名のない領域)を、仮に「玄」と呼ぶ。
玄の奥にまた玄がある。
この宇宙空間から、名のある領域に出るところに、「衆妙の門」が立っている。
それは命ある万物すべてのものが出入りする門だ。(12-13・第一章)

 

「汚い」があるから「美しい」がある(14・第二章)

 

実際、道(タオ)とは、先を考えてあくせくせず、ここでのいまを安らいで暮らすことなんだよ(19・第三章)

 

道(タオ)の力がひとにじかに働くとき、それを「玄徳」と呼ぶ。
玄徳のパワーは、体と心をひとつにする。(31・第十章)

 

私は、「無為」というが、それは何もしないことじゃあない。余計なことをはするな、手当たり次第に求めないで、淡白な味の暮らしをせよ、ということさ。(150・第63章)

 

分身トゥルパをつくって次元を超える

タロットカードで、「21」世界のカードが対応している。四つの力が取り囲む楕円の中に男女が一体化した両性具有的な存在が立っているのだが、これは四元素の領域に第五元素的なもの(楕円)が降りてくるという図式だ。(104)

 

何かを知りたいときには、ほかの人の意見など多くのデータを検証して、それが真実なのかどうかを確認しようとする。だが、これは数が多いものを選ぶという姿勢でしかなく、これは妄想を違う妄想ですり合わせているだけなので、長い期間にとんでもない思想や社会的習慣がつくられていく。

ドロレス・キャノンも、いろんな人に催眠をかけて、そこで出てきた宇宙人情報を比較して共通項を探そうとして。共通していれば、それは真実なのではないかと期待したのだ。(107)

 

獅子座9度「ガラス吹き」

獅子座は人の作ったものは気に入らない。だから、それらを粉々にして、溶かして自分の息を中心に吹きかけて美しいガラス細工を作り出すというのがこの度数だ。(132)

 

対外離脱にこだわり、その練習をする人も案外多いものだが、そもそもどうしてそれをしたいのかというと、主体が皮膚の牢獄に閉じ込められている二極化された世界から解放されたいという欲求からきているのだと思う。(139)

 

夜眠るときでもいいが、最初はもの思い、想像、考え事をしている段階で、目的とするあるイメージを思い描いてみる。これは自分の内面で思うことなので、すぐに消えやすい。が、それでもあることを継続的に思い描く。それは赤い三角形でもいい。ずっと思い描くのだ。

そのうちに、脳波がシータ波に近づき、この赤い三角形とは何の関係もない生々しい映像に切り替わる。赤い三角形と、後に出てきた映像が無関係なものだとすると、内面は外の領域とつながっておらず、あからさまにシャッターを降ろしたことになる。

しかし、内面で思い描いた赤い三角形が、今度は、くっきりと映像として見えるときには、それはエーテル領域に打ち込まれた、いや、向こう側からアクセスされたとみなされる。内と外はつながったのだ。(110)

 

これら12感覚が、第二の身体に移し替えられ、肉体がなくなっても、自分がこのまま十分に維持できるという自信があれば、いままでは肉体を持つ自分と陽神の知覚と二重に感じていたものを、片方に全部移すことができる。(111)

 

中国では、水銀を摂取すると精神に異常をきたすので、体の中の水銀を散らすために歩き回ったのが、「散歩」という言葉の語源であるといわれている。(111)

 

文字は線と線をつなぐものだが、そもそも線とは、共通したものの間を関連付けるという意味だった。(146)

 

エーテル体に接触できる文字が、いわゆる霊界文字あるいは神代文字というものなのだ。今日の日本語は、決してエーテル体に接触しない。実はヘブライ語もバビロン捕囚のときに強制的に改造されたものであり、ルーツは古くなく、神代文字とは言い難い。・・エーテル体に接触すると、宇宙のすべてにつながるかわりに、身動きがとれなくなる。霊界文字、神代文字は、アカシックレコードにも接触できるが、恣意的には扱えない。(146)

 

バビロニア時代までは創造神であり、キリスト教時代になってから悪魔になった(リリス)という点では、キリスト教は物質主義の宗教だということになる。確かに今日の物質主義は、キリスト教によって急激に加速した。

リリスは男性中心社会においては、決して捕まえられない、永遠に逃げ続ける女性であり、・・それを邪悪な存在にしたのは、まるでイソップ物語の「すっぱい葡萄」のようだ。(151)